シンポジウム「遍路文化」



 《「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会の第4回総会(2010年3月20日、高知市立自由民権館の民権ホール)の記念シンポジウムの詳報です。支援する会高知支部が主催しました》


【パネリスト(ヘンロ小屋の建設にかかわった方です)】
▽岡崎甲・幡多信用金庫非常勤理事=9号大月(幡多郡大月町)、13号佐賀(幡多郡佐賀町)、20号足摺(土佐清水市)、22号大方(幡多郡黒潮町)、33号宿毛(宿毛市)
▽依光栄さん=28号松本大師堂(香美市)
▽野村昌枝さん=32号天神(土佐市)
▽歌一洋近畿大学教授=ヘンロ小屋プロジェクト主宰者
□梶川伸=司会(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会副会長)
※ヘンロ小屋の住所は、県名がないものはいずれも高知県


    大きな宝くじに当たったようなもの


梶川 シンポジウムのテーマは「遍路文化」です。漠としたテーマですが、その方がいろいろな話をしていただけるのではないかと考えました。最初にパネリストの皆さんを紹介します。みなさんに向かって右側から依光栄さんです。28号松本大師堂の建設に深くかかわっていただいた方です。その隣、野村昌枝さんです。32号天神の建設にかかわっていただきました。その隣は岡崎甲さんです。幡多信用金庫の元理事長さんで、いまは非常勤理事をなさっています。たくさんの小屋を作っていただきました。私の隣が、ヘンロ小屋プロジェクトを主宰している建築家で近畿大学教授の歌一洋さんです。まず、それぞれがどんな風にかかわってきたか、自己紹介も兼ねながらお話ねがいます。さきほどの辰濃さん(辰濃和男・「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会会長)の話の中に、「一つ一つのヘンロ小屋には深い歴史がある」とありました。さりげない言葉なんですが、まさにそうだなあと思いました。まず依光さん。

依光 私どもの地域はちょうど、札所の二十八番大日寺(香南市)から二十九番国分寺(南国市)のちょうど中間にある集落で、ちょうど遍路道沿いにあります。集落の中に昔からお大師さまをおまつりしてありました。それが長い間風雨にさらされて、壊れかけて、地域の先輩方が何回も修復して守ってきたがですが、ついにどうも改築せないかんという話が持ち上がっていたところに、平成19年にヘンロ小屋プロジェクトの話がありました。地域のものがその話をうかがって、そしたら、お大師さまの前でお遍路さんが休むのはいいことじゃないだろうかという話になりまして、地区長さん初め、みんながそのお話を受けることになりました。それが建設の流れです。歌先生の設計をもとに建設を立ち上げまして、完成するまでには一言では言えないような長〜い難儀もありましたけど、今3年目を迎えて私たちが思うのは、空海さんの大きなお心の中で私たちが動かされていたということです。お接待の中で感じをつつ、今がありますので、建設にたずさわったこともすべて、大きな宝くじに当たったようなものだと感じています。

梶川 宝くじとは思いませんでした。どのくらいの当たりなんでしょうかねえ。

依光 そうですねえ。現代のお金では計れないような大判、小判と言う感じですかね。

梶川 建設にはたくさんの人数がかかわったと聞いていますが。

依光 建設にかかわって寄付をいただいた方が850人以上ですね。1000円からご寄付でした。1番ありがたかったのは、うちの集落45戸なんですけど、いろんな考えの方がいらっしゃる中で、全戸が寄付をしてくださったことです。ここに行くお遍路道の周りの集落の中で、いくつかの集落にあつかましく奉加帳を回しましたが、その時に皆さんが台風にでも巻き込まれたように、たくさん寄付していただきました。

梶川 依光さんから何度かお話を聞かせてもらったことがあるのですが、びっくりするのは、お寺さんにはお布施を差し上げるものなのに、お寺からも寄付をもらったということです。

依光 本当でございます。天下の国分寺からもお祝いをいただきました。

梶川 続きまして、野村さんにかかわりや、小屋ができていたった歴史について話していただきたいと思います。


    みんなに支えられて
    

野村 私の住んでいる土佐市には三十五番の清瀧寺と三十六番青龍寺があります。私はいつも夏のころ、アスファルトの上を汗だくだくになって歩いているお遍路さんの姿を見て、どこかにホッとする休憩所ができるといいなあと思っていました。でも行政の方に言うと、そのころには、「そんなの政教分離で」と軽くあしらわれていました。歌先生のヘンロ小屋プロジェクトを知った時に、「あ、これだ。これに乗ってやれば道が開ける」と思って、さっそく入会させていただきました。土地の件では非常に苦労いたしました。歌先生には2回も設計図を作っていただいたような状態でした。まず行政に何回もアタックをかけてやっと、「どうぞ使っていいよ」と言われた時に、住民の方から快く受け容れられなくて断念しました。それでも絶対に作りたいと思って、あっちこっち歩いて回っていて、もう諦めようかなと思っていた時、ふっと出会ったおじさんが、「野村さん、あそこの方が非常にいい人やきに、ちょっと話してみたら、何とか前に進むかもわからんよ」と言うてくれました。私はこのおじさんに神様のような、空海のような感じを持ちました。教えていただいたところへ訪ねていくと、ほんとに快く「どうぞ使ってください、ただでいいですよ」ということで提供していただきました。そして、また、歌先生にご迷惑をかけて設計をやり直していただきました。そのお隣の方の土地にもまたがるんですが、その方にも相談に行くと、「どうぞ使ってください」という本当に心の広い方でした。建築資金はずうーと以前から、お遍路さんのお宿をされていた70代の女性の方で、ヘンロ小屋がどこかに欲しい欲しいと願っていた方が「お金は出すよ、いるだけ出すよ」と言ってくださった。ですから、ボランティアの方も快く手伝ってくださり、みんなに支えられ、おかげさまで32号天神ができました。

梶川 ひょんなことから進んでいくものなんですね。行政の政教分離というのはどうですか。

野村 それは数年前の話で、いまは所管が変わりました。異動があって、その次に担当になった方は非常に理解のある方です。「お遍路さんは街づくりにもいいよ。地域の中で、みんんなと支え合って生きていくという大きな視点で作るのならば、土佐市を使ってもいいよ」という見解の方でしたから、その辺はクリアできました。

梶川 次に岡崎さんです。なぜ幡多信用金庫がヘンロ小屋づくりにかかわろうとしたのか、ご苦労話も合わせてお聞かせいただきたいと思います。


    10カ所くらい「しんきん庵」を


岡崎 コメントをさせていただく前に、当会(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会)と歌先生に一言お礼を申し上げます。私ども幡多信用金庫がヘンロ小屋プロジェクトにかかわり、歌先生には建築現場に何度も足を運んでいただき、建物設計に関しましては無料でやっていただきました。建物ができあがって落成式には、遠路はるばるお越しをいただいて、いろいろと教えをいただき、ご指導もいただきました。ここで改めてお礼を申しあげます。
 それでは私どものヘンロ小屋に対する取り組みを簡単に申し上げます。平成14、15年ころからだったと思うんですけど、私ども幡多の地方でも歩き遍路の姿が増加してきたという感じとともに、歩き遍路のみなさんが道沿いのちょっとした木陰や縁石に腰をおろして、休んでいるところとか、また狭い軒先で窮屈そうに雨宿りをしている姿を見ることがたびたびございました。そんな情景を見るたびに、歩き遍路のみなさんが誰にも気兼ねすることなく、ちょっと一息入れて、疲れた体を休め、時には雨露をしのぐ場所があればきっと喜んでいただけるではないかなと、そんな思いからスタートしました。もう一つの理由は、地域の金融機関として、こういうお接待の心を大切にする遍路文化の支援ということが社会貢献活動の一環にあるだろうという思いがありました。当初、地元で遍路文化の振興に関与していました山下正樹さんという方から歌先生を紹介いただき、その後、先生のご協力のもとに建築をタートさせました。最初には大月町のふれあいパークの敷地内に、信用金庫と親近感という言葉を兼ねた「しんきん庵」1号が、地域の方の応援もいただきながら完成いたしました。その後、各地方公共団体や企業に土地を提供していただいて、1年に1カ所のペースで順次建築を進めていきまして、現在5カ所完成しております。この9月までには、予定していた最後の6カ所目を作る予定でございます。まだ各地区から建築をしてほしいという希望がございます。私どもとしては、その希望よりも、私どもがヘンロ小屋に置いています一言伝言ノートに、歩き遍路のみなさんが「こんな立派な休憩所をつくっていただいて、ありがとう。ゆっくり休ませていただきました」と、数多くのメッセージが書いてありまして、それに応えるという意味で、もうちょっと頑張って、6カ所といわずに10カ所くらいやってみたいという気持ちが今は強くなっています。

梶川 今日はへんろ新聞の方も来られているのですが、いま「10カ所」と言ってしまっていいのですか。

岡崎 やっていきたいと思うし、自信はございます。(拍手)

↓写真=「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会のパネルディスカッション風景
2010年3月20日、高知市立自由民権館


梶川 歌さん、たくさんの小屋を建ててきて、39棟までいくと、いろんなパターンの作られ方ができてきましたね。その広がりをどんな風に感じていますか。


    年配の方まで一緒に


 いろんな信金が作ってくださるのは、岡崎さんが信金の集まりの時に、声を発してくださったからです。だんだん右回りに宿毛(高知県)の方から宇和(愛媛県)、瀬戸内海に周っていっているんです。徳島の信用金庫さんも、土地があったら、つくってくださるということを言ってくださっていて、それが2カ所くらいあります。それはそれで広がっていますし、ロータリークラブさんのご協力によっても、4〜5軒できています。またコンビニもありますし、個人そのものの思いが非常に成就したケースもあります。例えば1号の野村さんのところですね。土地も提供してくださって、建築費も400万円あまり全部自費で作ってくださいました。また素朴な竹の小屋もあります。小屋の立派さではなくて、お遍路さんに休んでいただいて、その気持ちが通じれば一番いいことなんです。それぞれかかわり方も違いますし、材料の違いますし、いろんな方法でできています。

梶川 それは歌さんが提唱された考え、あるいは「支え合う」という思いがどんどん広がったということなのでしょうか。
 いろんな形で広がっていくのは予想もしていませんでしたけど、基本的には子どもさんから年配の方まで一緒に、地域の方がワイワイガヤガヤ言いながら、触れ合いながら作っていっていただくというのが理想的でしたので、そういう形でも広がりつつあると思います。

梶川 歌さんの話を補足しますと、1号をつくってくださった野村さんという方は、何度もお四国さんを歩いて回った女の方です。1番困ったのはトイレなんですって。確かに昔は、使えるトイレがあんまりなくて、野村さんはどうしてもトイレのある休憩所をつくりたいという思いが強かったようです。トイレを作るのであればどうしても様式であると。歩いていると、和式だと立ち上がれなくなるということで、様式トイレのあるヘンロ小屋をつくってくださったわけです。歌さんの展覧会を見て、すぐ小屋を作る約束をしてくださったそうです。高知は「いごっそう」という言葉もありますが、「はちきん」という言葉もありまして、女の人の力が強いと私たちは聞いているのです。どうでしょうか野村さん、依光さん、小屋をつくっていくうえで、女性の力は強かったのでしょうか。


    はちきんがいて、竜馬がいて


野村 高知は今、竜馬で騒がれていますが、土佐のはちきんの代表は竜馬の姉さんの乙女ねえはんであると思っています。私はモデルにしています。

梶川 小屋づくりでも女性が活躍されたのでしょうかね。

野村 はい、出資も70代のおばあちゃんですから。

梶川 依光さんのところはどうですか、女性パワーは。

依光 そうですねえ、何と申しましょうか、高知は貧しいですけんね、男性も女性もないです。ともかく一生懸命夫婦力を合わせてやらないかんというところがありますから、女房がやる時にはそりゃ旦那が支えにゃあかんし、旦那がする時には女房が支えなあかん。こりゃ、ええことしよら、と思うたら、男の方々がたくさん協力してくださいましたね。うちのヘンロ小屋の取り組みは、後ろには男性の方がおりましたね。その大きな力の中で動いたような気がします。困った時は飛び込みました。竜馬さんが何人がおったように思います。

 でも、私が最初うかがった時、なかなかできないんじゃないかと思ったんです。依光さんらがやりかけてから、男性方々は「え〜」と言われたそうですが、途中で「あなたたち、黙っといてください」とはっきり言われたんでしょ、それから進み出したんですわ。

依光 涙は流しませんでしたね。そこで、涙を流しとったら私ももう少し可愛らしかったんでしょうが。考えてみましたら、本当になつかしい思い出というか、その方の力があったっからこそできたということもありますき、ハードルが高かった分、それが今はあったかーいヘンロ小屋になったような気がします。ともかく、お遍路さんが喜びますき、うちに来てくださって。私たちにとっても宝ものなんですよ。

梶川 竜馬がそんなにたくさんいるとは知りませんでした。ちょっとばらしちゃいますけど、高知の支部長をしてくださっている沖野んさんという女性が何で活動に参加してくださったかというと、歌さんと1番最初に会われた時に、歌さんが頼りなく見えたんですって。これは、自分が支えないかんと思ったそうです。歌さん、そうでしたか。

 そうですよ。

梶川 信金の場合は、地域の金融機関というイメージですから、地域との関係を大事にするわけですよね。ホームページを見ましても、いろんな地域とのからみをしていますね。地域との関係の中でヘンロ小屋と取り組んだということでしょうか。

岡崎 地域とヘンロ小屋を関連づけて言いますと、四国の信用金庫をヘンロ小屋でつなげていこうじゃないかのがあります。地域密着、地域の活性化、地域社会への貢献活動というのが、地域とともに歩む信用金庫の経営の理念でもあり、こういう考えのもとでやれば、ヘンロ小屋プロジェクトというその輪を四国の信用金庫全体に広げていったらどうかということもございました。隣の宇和島信用金庫さんとはいろいろ情報交換し、仲良くしているものですから、実はこのようなことで我々も始めたんだが、どうだろうかという話をしたところが、理事長さんが「非常にいいことだ。やりましょう」と言って、すぐ2カ所作っていただきました。それから後に、四国の信用金庫の理事長会があった時に、ヘンロ小屋プロジェクトがあって、宇和島さんと進めているんだが、とプロジェクトの詳細を説明してみなさんにお諮りしたら、みなさん「いいことだ、ぜひやりたい」と賛同していただきました。現在で私どもが5か所、宇和島信用金庫と愛媛信用金庫さんが各2カ所、川之江信用金庫さんが1カ所で、現在10カ所やっています。それで、東予の信用金庫さんもやってくれたんですが、このプロジェクトを通さんかったもんですから、カウントはしていません。徳島と香川については、土地を確保するのが非常に難しいそうで、土地さえあればいつでも建てさせてもらうという、現在は待ちの姿勢です。このプロジェクトに非常に関心を持っていて、熱心にしてくださっているのが愛媛信用金庫の理事長さんです。土地さえあれば、年間2ないし3カ所やりたいんで、土地があったら言ってくれと言うのです。


    暴力団事務所を追い出した住民力と連携


梶川 幡多信さんのいくつかのケースで、地域とのタイアップでこんなケースもあるんですよ、というのを紹介願いたいですね。

岡崎 宿毛のヘンロ小屋には「住民力」という言葉が書かれています。ここは以前、暴力団の事務所がございまして、その土地が競売にかかったことを幸いに、地域の防犯協議会というところが買い取りまして、市に寄付されたんです。そこに、「住民力」という碑を建てまして、何とかこれをいい方向で利用したいという話があったもんですから、それは願ってもないことで、ぜひやらしてほしいということで小屋ができました。景観のいいところでしてね、むしろこちらが飛びついて建てさせていただいたような次第です。

梶川 非常にいいお話ですね。いろんな要素、ファクターがある一つのことでパッと結びつく、こんないいプロジェクトはないような気がしますね。ヘンロ小屋は39棟できています。その中の17棟が高知県なんです。なぜ、高知はこんなに活発なのだろということについて、みなさんがたに聞いてみたいんですが。


    この世にあるのかと思うような親切心


 沖野さんが「お接待」を「おせっかい」と冗談で言ってますけど、ほんとに高知の方々は熱いと思います。一例を申し上げますと、梼原(ゆすはら)ですね、竜馬の脱藩の道ですが、あそこに茶堂が4、5軒残っているんです。設計のためにそこに調査に行ったんです。村の入り口でおばさんが畑をしていたので、聞いたんです。そうすると、車に乗せていただいて、4軒5軒と案内して周ってくださったんです。3時間くらいかけて。途中で近所のおばさんに会うと、そのおばさんは「お茶飲んでいってください」と言うので、お宅までお邪魔して、お茶を飲ませていただきました。帰りには、連れていってくださったおばさんが「昼ご飯を食べていってください」と言うんです。さすがに遠慮しました。そうすると、ナスビを大きな箱に入れて積んでくださったんです。全く見知らぬ人ですよ。こんなことは、この世にありえないと思ったんです。おもてなしというか、親切というか、びっくりしました。

梶川 岡崎さんはどう思われますか。17棟のうちかなりを幡多信さんが作ってくださっているのですが、何か根底に高知特有のものがあるのでしょうかねえ。

岡崎 1番思うのは、お寺からお寺までの距離が長いということと、我々の幡多地域でいえば、ヘンロ小屋が少なかったことでしょう。例えば窪川の岩本寺(三十七番岩本寺=四万十町)から足摺の金剛福寺(三十八金剛福寺=土佐清水市)、それから延光寺(三十九番延光寺=宿毛市)まで200キロ弱あるんですよ。我々がこのプロジェクトをスタートさせた時はヘンロ小屋が少なく、歩く人が大変だなあと思っていましたね。そういうものが根底にあって、我々も小屋をつくらせていただいたし、そういうことで(高知県のヘンロ小屋の)パーセンテージが上がっているのかもしれません。もう一つ、土佐は女性の方のをはじめ、遍路文化に対する理解も深いし、何事をするにも非常に活発にするというのが大きな理由ではないかと思います。

梶川 確かに言われてみると、寺と寺の距離が長いですね。そういう視点でとらえたことはなかったですね。例えば薬王寺(二十三番薬王寺=徳島県美波町)から最御崎寺(二十四番最御崎寺=室戸市)、いま出ました岩本寺から金剛福寺はほんまに長いですね。お遍路さんのしんどそうな姿を見る機会が多いということもあるんでしょうか。私も歩かせてもらったり、自転車で行ったこともあるんですが、高知の思い出は本当にたくさんあります。善根宿もいくつかあります。善根宿というのは泊めていただける家です。自転車で周った時にある家に泊めていただきました。「うちは農家だから食べるものはある」と言うのです。といっても、肉があるということではないのですが、「お米と野菜はあるので、「別に気にせんでええよ」、と言ってくださる。4人家族で、食べ物を4で割るところを、5で割ればいいだけだから」と。泊めてもらうと、住所、名前をノートに書くことになっているんです。ノートに書いてあるタイトルは、何度も話すことがあるのですが、「本日家族 増員名簿」ですよ。これはたまらんですよね。これはきっと、岡崎さんが言ったように、苦労した姿を見ることが多いということにもかかわるのかもしれませんね。野村さんはどのようにお考えですか。高知の人は特別な遺伝子を持っているのでしょうか。

野村 歴史的に高知というのは、弘法大師空海に対して熱い思いがあるのじゃないかと思います。歌先生がプロジェクトを立ち上げてくださった時に、ヘンロ小屋のことを話してもみなさんピンこないような状態だったのですが、最近意識が前進してきましたよね。これはありがたいことです。

梶川 依光さんはどう感じられますか。高知の方々は、お遍路さんや、そういった文化に特別に関心が高いのでしょうか。


    ヘンロ小屋のお接待にリピーターも


依光 岡崎さんがおっしゃった通り、距離が長いですね。高知には何か残っているような気がしますけど。高知はちょっと遅れてるいうか、遅れた分いいところがあります、心が。都会は、何か捨てるものが多いじゃないですか。ところが高知は捨てきれてないものがある、まだ残っているような気がします。

 松本大師堂では地元の方々がお遍路さんにお接待してくださってますよね。それだけでなく、お接待している人をお接待する人ができているんですか、二重になって。

依光 そりゃ、すごいです。毎月21日には喫茶店状態、カフェ状態です。私の家業は農業ですけど、21日の午前中は休みにしております。多分今夜は嵐であした(3月21日)は晴れであろうと、神通力で晴れにして、桜の下でたくさんの方があそこに集まると思います。こんな話があります。今年2月21日に千葉市の方から、お遍路さんのご夫婦がいらっしゃました。その日が奥さんのお誕生日で、最初に2月21日に来た時にうれしくて、今年が3回目でした。来年はまた段取りしましょうということで計画していますが、ものすごく喜んでくれましたねえ。リピーターとまではいきませんけど、わざわざ21日に行きたいなあ、といお遍路さんがいらっしゃいます。

梶川 リピーターという感覚、わかります。依光さんの話を聞いたり、実際に松本大師堂に寄せてもらったりすると、リピーターになりたくなるんですよ。私たちの会長をしている辰濃(和男)さんもそうらしですよ。野村さんのところの小屋の使われ方はどうですか。


    果物を置き、傘を置き


野村 まだまだ、できたばっかりですから。時に地域の方が果物を置いてくださったり、傘を置いてくださったりといった細やかなお接待をしてくださっています。もっともっと育てていかなけらばいけないと思います。

梶川 あそこは清瀧寺に登る前にちょっと一休みするのにいい場所です。僕も寄せてもらいましたが、あそこで休むと、「よし、頑張るぞ」となりますね。岡崎さん、幡多信金で作った小屋の使われ方、あるいはお遍路さんの反応はいかがですか。

岡崎 非常にいい使われ方をしています。例えば(9号)大月なんかは、バス停と共用していただいているとか、黒潮町の分(22号大方)は地域のお年寄りの方々の談話室になっています。(20号)足摺とか(33号)宿毛なんかは地域の花火大会や行事の見物場所になったり、非常にいい使われ方わされています。そのおかげで、みなさん、自分たちのものだからきれいにしなければいかんといって、清掃だとか、プランターの花を置いてくれたり、管理を十分にやっていただいています。お接待については、職員で年に1、2回やってはいるんですが、十分なお接待になっていないというのが現実です。歩き遍路さんというのは、日によっては10人ということもあるんですけど、1人2人しか来ないという日もあってばらつきがあります。事前に歩き遍路の情報をとって、お接待をするという細やかなことをせんといかんのかなあと思うこともありますが。

梶川 そこまでしなくてもいいような気がしますが。休んだお遍路さんの反応を聞いておられますか。

岡崎 「こういう立派な小屋を立ててくれて本当にありがとう」「ゆっくり休せていただきました」という感謝のメッセージは数多くあります。それについて、私が考えるのに、歌先生の設計がそれぞれの土地の風土、文化を生かしているということと、お大師さんや高野山の方向を関連づけた風格のある小屋で、しかもある程度スペースも広く、景観のいい所にあるもんですから、みなさん「ゆっくり休ませていただきました。ありがとう」というメッセージになるのでしょう。いくつかメッセージを読ませていただきます。「少し休憩をさせてもらいました。快適だったので1泊させてもらおうかと思いましたが、ちょっと時間があるので歩きます。これからも多くの遍路さんがここで憩い、足を休めることができることに感謝していくでしょう。幡多信用金庫さん、本当にご好意ありがとうございました。感謝します」と、大阪の方ですね。「とても親切な方に案内され、素晴らしい景色をながめながら休憩いたしました。建物を建ててくださった信金さんに感謝」。それから「あいにくの雨で、せっかくの景色も見られず残念です。歌さんのヘンロ小屋ありがとうございます。雨の日は休むところに困りますので、大変うれしく思います」と北海道の方のコメントもあります。
 

    風の流れ、光を感じて小屋づくり


梶川 雨の日は本当にありがたいと思いますよ。それに暑い日ですね。それから疲れて根性がなくなった時に、休ませてもらうのはありがたいものですね。歌さんが設計をする時に、どういうことを根底に置いているのですか。

 1番心がけていますのは、土地を見て、風景を見て、風の流れや、光がどちらから入って来るかとか、こっちにこんなのが見えると、よく考えまして、空間に取り入れるわけです。それを見たり感じたりすることによって、お遍路さんがいい気をもらって、また元気に出ていってもらうことを、1番大事にしています。それには手段が必要なので、物語を作るのです。設計のコンセプト、ストーリーですね。ストーリーを考える時には地元の産業、あるいは物産、風景、作る方々の思い、作る態勢、経済的なこと、そういうあらゆることを頭お中で整理をして、まとめあげて作っていくわけです。小説を作りようなものだと思います。いい小説を読んだり、いい映画を見たりすると、気持ちようなったり、元気になったりしますよね。小屋も同じことなんです。あまり変のものを作ると、汚さたりするかもしれませんので、できるだけ生活観のあるものを心がけているつもりです。

梶川 今の言葉の中の「風、光」、これは歌さんがよく使いますが、良い言葉だと思いますね。「空気」というのも加わると思いますが。もちろん、小屋にも風、光、空気があるのですが、四国全体にそういう空気があるように、僕は思います。きょうは、小屋にかかわった方にお集まりいただいているので、今後のこともうかがってみたいですね。例えば、できた後、何が課題になっているのか、私たちの方では何ができるかなどを、それぞれお話願います。お困りのこと、こんなのが悩みなんですよといったこともお聞かせ願います。


    多くを望まず、150年後を楽しみに


依光 今日参加して、幡多信用金庫さんの理念の素晴らしさを聞いて、幡多信さんに預金しとったら良かったと思いました。最近思うのは、「何でもあり」ということですね。いろんな方、いろんなお遍路さんを見てきましたが、最初私たちは身辺調査をしよりました。「あなた、どこから?」と。それもやめました。毎日いろんなことがありますき、止まってないような気がします。それが、私たちの地域の風といいますか。もうそろそろ田植えが始まりますが、そしたら花が咲きます。そこにこんなのがあったらいいね、というものがちょっとずつですけど、実現しています。桜も何本か増えてきたり、紅葉も植わった、アジサイも咲くとか。小屋ができたことをきっかけにして、何だか止まってないですね。最初は世話人で出発しましたものが、いまは完全に地区に下りてますから、子々孫々まで続きそうで、小屋を次ぎに直す150年後を楽しみに私たちはやっています。いろんなお遍路さんが来て休まれること以外、あまり多くを望ず、さりげなくやっていきたいです。

梶川 150年後ですか、やはり高知の人はスケールがでかいですね。ひょっとすると、150年後にNHKが「竜馬伝」ならぬ「松本大師堂伝」をやるかもしれませんね。

依光 松本大師堂のヘンロ小屋を作るにあたって、150年前(の改修)、その前に300年前の(改修の時)に「いわみじんべえさん」とい方がいらっしゃったことを知り、私たちが歴史の中で生かされていることを実感したもんですから。150年前の改修の安政3年は、ちょうど竜馬の時代なんですよね。高知で竜馬さんがワイワイゆうた時に、松本ではこんなことをしていた、大師堂を建て替えよったと思うと、竜馬さんも身近に感じます。今回立ててくださった棟梁さんが、150年は大丈夫と言いました。次ぎに壊れた時には、私たち世話人の名前が出てきて、ちょっとうれしいかなと考えると、楽しみでしょう。

梶川 野村さんは何か?

野村 四国に育まれた「癒し」とか、いたわりの文化である遍路文化が継承されていくのは、地域社会の人間の育成でもあると思っています。そういう意味で、いま四国八十八カ所霊場を世界遺産に、という動きがあります。さる3月16日には、産官学が連携して協議会が立ち上がったり、国交省は今までお遍路さんのことを言わなかったんですが、これを通じて街づくりを進めているんです。歌先生は、こういうところと共同していくということはあまりお考えになっていないのですか。私はお接待の心は回り回って、人々をつないでいくと思いますけど。

 実は先日、高松で野村さんがおっしゃられる協議会があって、私も出席したんです。世界遺産化は悪くはないと思うんですけど、得てして形骸化して形だけのものになるのを非常に警戒しております。もともとこういうものは、1人1人の個人の心の問題で、自然にできていくもんですから、上からかぶせてこんな形にするとか、率先しましょう、というようなもんではないと思っています。ですから、私のやっているプロジェクトもNPOにしないのもそういう意味です。個人の意思で、何の義務もなく自由にやる、楽しみながらやるという感覚ですので、それを大事にしたいと思っています。遍路文化は永遠につながっていってほしいと思っています。それには、年配の方ばかり寄って会議をするんじゃなくて、幼稚園の子ども、小学生、中学生、高校生、大学生にどんどん入ってもらった方がいい。私たちにかかわってもらうのは小屋づくり、あるいは小屋に入っていただいて、お遍路さんと接していただく、というのが一つの形です。できるだけ、心をつないでいってほしいと思うのです。小屋もその手段ですからね。形があれば人間も入りやすいですから。世界遺産も、手段と方策を間違えないようにしないといけないと思っています。


    お遍路さんと地域、大人から子どもへ


梶川 いまの歌さんのお話の中に、歌さんのキーワードが出てくるんです。ヘンロ小屋というのを、支え合ったり、触れ合ったりする場と考えるのですが、その中に大事なことが含まれていると思うんです。お遍路さんと地域、地域と地域という空間的な触れ合いだけじゃなくて、時間的な触れ合い、時の流れ、つまりり大人から子どもへ、子どもからさらにその子どもへという交流を大事にするということです。その辺をもう少し説明してもらえますか。

 いま変な社会になってますよね。人と人との心というか、気持ちというか、情というか、そういうつながりが非常に希薄になっていて、個人対個人の関係が断絶しかかっていますよね。人のことを思いやったり、支えたり、そういうことがなくなっています。この小屋というのは、お遍路さんを支える、それをやったことによってやった人も支えられ、心のつながりとか触れ合いをしていくのです。いま3人さんにお聞きしましたが、小屋がいろんな形で使われているので、私が思っていたイメージに近づいています。近所の方々が花を置いてくださったり、ちょっと入ってきて話をしたり、縁側みたいに談笑するというのもいい形ですし、そのように広がっていくのがありがたいと思っています。それは地域に方々の心が入ってきて、また違う人の心が入ってきて、四国中にいっぱい点ができたら、それが線になって面になって、それが日本中、世界中に広がっていけばいいなと思っています。

梶川 岡崎さんは課題についてどうですか。

岡崎 私はしょっちゅう、歩き遍路の方とお会いして話をするんです。「休憩所で1番ほしいのは」と聞くと、必ず「トイレ」ということが出てくるんですよ。そのことはよく理解できるんですが、反面考えるとよっぽど十分な管理をしないと、今度は臭いが出て、はたしてそこでゆっくり休んで心を癒すことができるのか、とむしろ反対の心配をするもんですから、私の方の5カ所の休憩所にはトイレは設けてないんです。ただ、幸いなことに、我々の5カ所のうちの4カ所は近所に公共のトイレがあるもんです。今後つくっていくことを今日お約束をしましたんで、その分についてどう対応していけばいいのか。水洗にすると電気も問題もありますし、そこら辺でどういう対応をしたらいいのか、みなさんにお聞きしたいな、という感じです。それと、これは少数意見ですけど、夏場に遍路道を整備してほしい、というのがありました。もう一つ、遍路で1番つらいのが、道に迷ってバックをする時だということで、道しるべをもうちょっと多くしてほしいということと、もっと大きくしてほしいというご意見があります。これは、道がそれるかもしれませんけど、四国遍路のスタイルが本来の信仰というものを主体にしたものから、バスツアーや自家用車で回る、また健康志向とか、観光目的という方が増えています。非常にありがたいことなのですが、年々増えていくということは、四国の遍路というのが、ほかの観光地には代えられない魅力があるのじゃないかなと、チラッとおもんです。そうであるならば、この四国遍路の良さを宣伝していくべきじゃないかなと思うんです、商売柄。また、遍路が1人でも増えるということは、このプロジェクトの意義がアップしてくるんじゃないかな、そんな思いをしております。

梶川 遍路のとらえ方はいろいろあると思います。歩き遍路について僕が思うのは、「見つめ直し」というのがふさわしいんじゃないかということです。いろいろな遍路があって、いいと僕は思います。道しるべはちょっと別の話なので、きょうは置かしてもらいます。


    心の世界は無限に広がる
 

 このプロジェクトが非常に広がっていますのを私はびっくりしております。大阪のある大企業の社長さんから、おもてなしとか、支え合いの精神を生かした方策を考えてくれと言われましたり、あるいは(大阪府)吹田市長に遍路の八十八カ所の休憩所を作ってくれと頼まれたりしています。「お遍路さんじゃない」と言ったんですけど、市長さんは「遍路」と言うんですよね。吹田は竹が多いので、1個つくりかけています。吹田市全体を巡る道に八十八カ所の休憩所をつくるんです。こういうのも広がっています。また、物は小さいですけど、心の世界は無限に広がります、世界中に。このプロジェクト、小屋のつくり方、考え方は多方面につくられると思っています。それは、やっていって、分かってきたんですが、例えば1人がパーンと出して、あるいは行政が出して、個人個人の思いが何となく集約して、共感のもとにものがつくられる時代だと思っています。この小屋づくりもそうで、私はたまたま言いだしっぺで、きっかけだけなので、後は地元の方つくってくださっています。そういう感じが大事だと思っています。それから、先ほど依光さんが非常にいいことを言われたと思います。「育てる」ということです。運営ということを言いますが、私は建物をつくった後、「運育」と言っているんです。物はつくっても、心が入って、魂は入らないと育っていかない。つくってからが大事ですね。つくってしまったら終わりじゃなくて、形の問題じゃないですね。小屋に関して、愛着を持って育てていただければ、それが1番の遍路文化だと思います。お遍路さんが、小学生に「おはよう」とか声をかけてもらったら元気になる、とよく言われます。そういうことって普通はないし、すごいことだと思うんです。それが原点だと思っています。そういうかかわりが、どんどんどんどん広がっていくことを、私は望んでいます。
 
梶川 お遍路さんが声をかけてもらったら元気になりますか、という話がありましたが、それはなります。私は元々は新聞記者だったんです。最初に自転車で回ったんですが、その時に子どもが、ある町で「おはよう」とか「さよなら」と言ってくれるので、わざわざその町に電話をかけて取材したことがあります。「なぜ、あなたの町は、子どもたちがみんなあいさつをするのですか」と。その町はたまたま、「そういう風にしましょう」という教育長の方針なのでした。そういうのが、空気になっていった時に、いいものになるんでしょうね。今日は漠然としたテーマだったんですが、それぞれの方が実際にかかわっていたので、話の中身が具体的なものになっていたと思います。


↓写真=「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会のパネルディスカッション風景
2010年3月20日、高知市立自由民権館

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