梶川伸・元毎日新聞論説委員(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会副会長)「元編集長のちょっといい話」



 《2010年7月29日に兵庫県川西市多田公民館「ふるさと講座」の講演の詳細です。読みやすいように、中見出しを入れました》


 僕にとっては、今日は面白い日です。今日のタイトルに「元編集長の」とついていますが、毎日新聞で編集長的な役割をしていたのは、1年半ほどです。新聞記者人生の最後の方は、論説委員や編集委員をしていました。論説委員は何をしているか分かりますか。社説を書くのです。毎日、NHKのお昼のニュースが終わった後、1時間から1時間半ほど議論をするんです。「今日はどういうテーマにしようか」「どんな内容、主張にしようか」と。合意ができたことを書くのです。
 3年前に定年になりました。会社に残らないか、という話がなかったわけではないのですが、僕はやりたいことがいくつかあったので、毎日新聞をやめて、好きな活動をしていました。ところが今年4月に後輩から電話がかかってきました。会いたいというので、「酒でも飲もう」という話かと思っていました。会ってみると、こんな話でした。「今度、この近くの池田と豊中で地域密着新聞を出したい。ついては編集長をやってほしい」。「僕はやりたいことがあったから、会社をやめたんやで」とは言ったのですが、一緒に仕事をした後輩からの頼みでもあり、引き受けることにしたんです。ウェブサイトと連動した「マチゴト 豊中・池田」という新聞で、実は今日創刊号が出たんです。元編集長ではなく、今日から編集長になったんです。奇跡ですね。


   社会の中で前向きに生きる


   僕が好きな本に写真家の星野道夫さんのエッセイ集「旅をする木」というの庫本があります。その中に好きな言葉があります。「人生はからくりに満ちている。日々の暮らしの中で、無数の人々とすれ違いながら、私たちは出会うことがない。その根源的な悲しみは、言いかえれば、人と人が出会う限りない不思議さに通じている」です。同時にたくさんの人と生きていますが、ほとんどの人と会うことはないですわね。そのことが人間の根源的な悲しみで、逆に言うと、人と人が会うのは奇跡だというです。今日みなさんにお会いできたのは奇跡も奇跡、大奇跡です。
 タイトルは公民館の方からいただいて、「ちょっといい話」とはどういう話をいうのだろうか、独断的に考えました。僕の結論は、「いい話というのは、結局は個人的な経験であっても、社会性を持つ話ではないか。だから、いい話として共感できるのだろう。人間は社会的動物なので、社会の中で生きることに熱心な人、前向きであったり、肯定的であったりする人の話であろう。一方、共感する人は一緒に泣け、一緒に笑い、自分のこととして考えることができる人ではないか。それが社会に生きているということなのだろう」でした。
 新聞記者なので、たくさんの人に取材させてもらいました。僕は社会部の系統の記者です。社会部の記者は何を取材するかというと、人間を取材するんです。僕たちが若いころに教えられたのは、人間の喜怒哀楽のうち、怒哀を中心に書けと言われました。怒哀を乗り越えた時に喜楽があると思います。ワインは酸と甘みの両方とも強いものがいい、と言われることがあります。中和されるみたいですが、そこに深みがあります。人生でも、山と谷、悲しみと喜びの落差が大きいほど、深みがあるのではないでしょうか。


   安もんの病気はせえへん


   私の取材経験の中からいくつかお話します。「心にしみる一言」という記事のコピーの資料を配りました。取材した際に印象に残る言葉をメモしていて、それがどのような場面で言われたのかを、コラムとして連載したものです。その中の一つ「顔がなくなって見た目は悪いけど、足は丈夫だし、打ち込める和裁もある」。女の方で、顔のがんになりました。手術をしてあごのあたりを切り取りました。通常はマスクをしています。マスクをとって見せてもらいました。マスクを取ると、口の中が見えます。これは女の人はつらいです。
 ご飯を食べる時にはどうするか。お味噌汁を飲みます。切り取ったところからこぼれないよう、皮膚のあるほおの方を下にして飲みます。うどんは1本1本つまんで、食べます。でも、その方は言うのです。最初はマスクをしていても、恥ずかしくて目を上げられなかった。しかし、よう考えてみたら、自分は和裁が好きだ。家のそばを散歩していたら、友だちができ、外国に行って日本の子どもの遊びを教えるようになりました。つらさを乗り越えたことで、人生の深みが出たと思います。この人の言葉で、たまらなく好きなものがあります。「大きな病気をしたので、安もんの病気はせえへん」と言ってのけるんですよ。そんな素晴らしい人ですね。僕なんか元気づけられます。ちょっといい話じゃないでしょうか。


   50点の人間が51点になる可能性


   もう一つ。言葉としては「50点の人間が51点になる可能性があるということ」です。比叡山延暦寺で千日回峰行というのがあります。千日間、山の中を回るんです。京都まで下りて、また登る日もあります。途中で8日間堂にこもり、食べない、飲まない、寝ないという行もあります。そういう修行を重ねた人に聞いた時の言葉です。「修行をして、何か変わりましたか」と言って返ってきた「いやあ、変わりませんよ」の言葉に次いで出たのが、この言葉です。これはすごいですね。そんな大変な修行をして、これです。感動しました。


   幸福町に住むおじいちゃん


   ちょっといい話、その2。編集委員の時に、「けったいでんな」というコーナーを持っていました。庶民の暮らしを取り上げたコーナーです。今からお話するのは、かなり好き嫌いがあるでしょうけど、私は好きなんです。門真市幸福町に住む小川さんというおじいちゃんの話です。取材依頼の手紙が届きました。「幸福町」という名前がいいでしょう。僕はすぐに行きました。もともと喫茶店をしていました。それを子どもさんに譲り、一角の1メートル×4メートルほどのスペースをもらい、カウンターにいすを4つ備えて、たこ焼き屋をしていました。
 「空飛ぶラーメン丼というものを創作しました。これが大変な人気なんです。取材に来てください」という依頼です。行きました。「自分たちは、ご飯に味噌汁をかけて食べた。その発想や」と言うんです。実演してもらいました。ラーメンを作ります。もう片方で、ご飯を、巻きずしを作る時に使う巻きすの上に乗せ、巻きすを上下に動かして、ご飯をほうり上げては、巻きすで取るというのを繰り返すのです。だんだんおにぎりのように丸くなります。それを丼に入れて、その上にラーメンを乗せ、上からスープをかけるんです。確かに空を飛んでますよね。面白いなあ、と思いましたが、本人はいたって真剣なんです。「大人気らしいけど、どのくらい注文があるのですか」と聞いてみました。「1カ月に3つか4つ」。面白いでしょう。幸福町のイメージにぴったりです。でも、おじいちゃんにとってみると、それが生きがいなんです。


   大まじめの楽しさ


   実はまた手紙がきました。「魔法のターボを作って、実用新案を取りました」というんです。また取材に行きました。ご飯を炊飯器でたいて、しばらく置くと、おいしくなくなりますね。それをおいしいままに保つのが、魔法のターボだというんです。炊飯器のご飯の上に置く木の円盤で、いくつか小さな穴が貫通しています。炊飯器の中では、湯気が上り、それが冷やされてご飯の上に落ちてくるので、ご飯がまずくなるそうです。ところが魔法のターボを置くと、湯気は穴から立ち上りますが、上から落ちてくる時は穴が小さいので、円盤にブロックされるという理屈です。
 その効果は実証されたと自信ありげでした。魚沼産コシヒカリと標準米にターボを乗せたものと2種類を、1日たってから、近所の食通の奥さん4人に、どちらがおいしいか食べ比べてもらったそうです。その結果、「2対2じゃった」そうで、「十分に実用化できる」と言うんです。テストをする人が近所の食通の奥さんであるということ、それもたった4人であることが、面白いではないですか。でも、大まじめなんです。
 農水省からも問い合わせがあると、誇らしげでした。「日本の過剰米の対策にもなる」と、スケールは大きいのです。家電会社や魔法瓶の会社からも接触があると、話していました。でも、よく聞いてみると、小川さんは農水省やメーカーなどにターボを送り、何のことかと首をひねった職員、社員が問い合わせをしてみた、というのが真実のようでした。
 それにしても、なぜ、ターボという名前なのか。一家で食事をしている時、ネーミングの話題を出すと、お孫さんが「ターボがいい」と言ったので、その名前に決まったそうです。幸福町に住む気のいい人たちの話でした。


   深いものを心に沈めたお遍路さん


   ちょっといい話その3。夕刊1面の下の方で、「こころ遍路」という題の連載を20回続けたことがあります。急に頼まれたので、取材のしやすいテーマを選んだのです。当時、私は毎日新聞旅行の遍路ツアーの先達をしていました。そこに集まっている人に、「なぜ遍路をするのか」など、改めて詳しい取材をし、執筆しました。理由にはさまざまなものがあります。身近な人の死や先祖供養、自分の見つめ直し、観光、ウォーキングなどです。
 そのツアーは、良い遍路道は歩き、ほかはバスで移動し、ちょっぴり観光もするという、むしのいい、気楽なツアーでした。1カ月に1回、1泊2日の行程で、計11回で結願しました。募集をかけてのツアーなので、メンバーはほとんど1人参加でした。
 ただし、毎回歩くことが入っていて、7時間も山道を歩く日もあるので、バスばかりで参拝するツアーに比べると、深いものを心の底に沈めている人が多かったように思います。例えば、娘さんを25歳の誕生日の5日前に交通事故でなくしたお母さんがいました。学校の先生でしたが、ショックのあまり、学校を辞めてしまいました。彼女にはご主人も、しゅうと、しゅうとめもいて、食事の用意をしなければいけません。ところがそのころ、学校の行事が忙しくて、娘さんが代わりに夕食を作ることが多かったそうです。
 事故の日は、学校の用事が早めに終わりました。「今日は自分が夕食を作る」と娘さんに電話をしようと、受話器を上げたのですが、なぜか電話をせずに受話器を置いたそうです。そして、家に帰るまでの間に、娘さんは事故に遭いました。彼女は「あの時、電話をかけてさえいれば、娘は夕食の買い物の出ることもなく、事故にも遭わなかった」と悔やみました。やがて、娘さんが亡くなったのは、自分のせいだ、と自分を責めました。


   写真と一緒に歩く


   毎日毎日、娘さんのお墓参りに行きました。手帳を見せてもらったことがあります。お墓参りの欄が設けてあり、毎日その欄には○が書き込まれていました。
 初盆の時、お寺さんが話しかけました。「いつまでもくよくよしていると、娘さんも浮かばれませんよ」。お寺さんにしてみれば、彼女に立ち直ってほしいという善意の気持ちからの言葉でした。それが、彼女を打ちのめしました。「娘が亡くなったのは私の責任で、亡くなった後も私は娘の足を引っ張っているのだろうか」
 彼女はそのことを教えてもろうと、京都の瀬戸内寂聴さんを訊ねました。寂聴さんは「お墓にお参りしようという気持ち、それは誰にも止められない。ただし、お墓には何も入っていないいのよ。娘さんの魂はあなたのそばしいるの」と言ったそうです。そして四国八十八カ所を回ることを進め、私たちツアーに途中から参加しました。
 初参加の日、彼女は泣いてばかりいました。その回に限って、彼女や娘さんと同じくらいの年ごろ母子が参加していたのです。山の遍路道を、その親子は楽しそうに話しながら歩いている。しかし、自分は娘の写真と歩いている。涙が止まらなかったそうです。


   仲間やないか


   ちょっといい話としては、メンバーの中の石橋さんという女性の話をします。石橋さんは東大阪の中小企業の経営陣の1人です。お父さん工場を継ぎ、結婚もせずに仕事に打ち込んでいました。お父さんの供養と、自分が乳がんになって手術をしたこともあり、4回目のツアーからの参加でした。その回は7月の暑い日でした。「そえみみず」と名前のついた峠越えの遍路道を歩きました。熱中症が心配で、歩く前に水を飲んでおくよう、参加者に何度か注意しました。ところが石橋さんは飲みませんでした。山道にはトイレがなく、それを心配したのでしょう。しかも厚着でした。
 峠で休憩しました。石橋さんは石に腰を下ろしました。そして眠りかかるのです。熱中症です。メンバーの中に、看護師さんがいまして、それと分かったんです。その時のメンバーは20数人です。私はリーダーですから、参加者を山から下ろさなければなりません。そこで男2人、女2人の4人に残ってもらい、後を頼んで、私たちは先に出発しました。これから話すのは、後から4人に聞いた話です。
 4人のうち1人の女性が「男の人は後を向いて」と言い、石橋さんの服を脱がして、上も下も1枚ずつにしました。そこから計5人で下りてきます。男性の1人が石橋さんに肩を貸します。女性の1人が、その男性のベルトを後から引っ張り、山道で滑らないようにします。残りの1人は道に落ちている石や木の枝を取り除いて歩きやすくし、他の1人は持っていたパンフレットで石橋さんに風を送り続けたそうです。
 全員が宿についたのは1時間半遅れの午後8時前でした。肩を貸した男性は、宿に着くと自動販売機で缶ビールを買い、一気に飲みました。疲れて、のどが渇いていたのでしょう。私は「どうもありがとうございました」とお礼を言いました。そうすると、「何を言っとるんや。仲間やないか」と言うのです。うれしかったですね。彼にとっては、石橋さんはその日に会ったばかりの人です。しかも、金を払ってツアーに参加しているので、わざわざしんどい目をする義務も必要もないわけです。それなのに、「仲間やないか、当たり前やないか」です。
 ベルトを引っ張った女性にもお礼を言いました。「本人に下りてこようという意思があったから、下りてこれたんですよ。1番頑張ったのは本人です」。それが返ってきた言葉でした。その看護師さんは、山道で救急車が入れないのでレスキュー隊を呼ぶことも考えたそうです。遅い夕食になりましたが、不満を言う人はいませんでした。


   期待に応えて、またダウン


   続く8月はツアーが休みで、9月に次の会がありました。メンバーの全員が、石橋さんはもう参加しないだろうと考えていました。まあ、言い方によっては、みんなに迷惑をかけたわけですから。
 ところが石橋さんは参加しました。集合場所に姿を現した時、肩を貸した男性が思わず「来た!」と声を上げてしまいました。石橋さんに聞くと、前回の遍路以降、毎日仕事が終わった後、家の近くを3キロほど歩いて鍛錬したと言います。その回は愛媛県の柏坂という遍路道を歩きました。
 私は先頭を歩いているのですが、後の様子が少しこれまでと違うのです。前回、肩を貸した人など何人かが1番後にいるのです。もうお分かりだと思いますが、何かあった時のために、1番後で控えていたのです。別に頼んだわけではないのですよ。
 石橋さんは期待に応えて、またダウンしました。今回は、後に控えていた人たちがちゃんと作戦を考えていたのです。金剛杖2本を体操の平行棒のように並べます。4つの端をそれぞれ1人ずつが持ちます。金剛杖には真ん中にタオルをかけ、そこに石橋さんの両方の脇の下をかけて、ゆっくり峠から下ろしてきたのです。
 昼食は大幅に遅れました。結局、コンビニで銘々がパンやらカップ麺を買って食べました。それでも、文句を言う人はいませんでした。いい話ではないでしょうか。遍路の仲間も小さいながら社会です。そこで、人のために、ということが、ちょっといい話につながっていくのではないでしょうか。
 結局、石橋さんはこのツアー遍路で4回ダウンしたのですが、最後まで参加しました。きっと、遍路仲間と会っているのが楽しかったのでしょう。それが社会性ですね。遍路から帰ると、兄弟に遍路のことを毎回話していたそうです。


   もう、迷惑をかけることはありませんよ


   石橋さんには「酔芙蓉」という美しいニックネームがありました。遍路仲間の女性は年齢が高いこともあって、あまりお酒を飲みません。石橋さんは酒を飲み、飲むとすぐ顔が赤くなりました。酔芙蓉は朝白く咲き、昼間にピンクに変わり、夕方赤くなって、翌日散る美しくてはかない花です。
 やがて、石橋さんはがんが全身に転移して亡くなりました。遍路仲間でお通夜に行くと、喪主の弟さんが私たちのことを知っていて、何人かは名前まで知っていました。そして、病床で書いた私たちにあてたメモをコピーして配ってくれました。肩を貸した男性には「もうご迷惑をかけることはありませんよ」と、書いていました。最後に気にいっていたニックネームが「酔芙よう」と書いてありました。その字を見て、入院してから電話で話した時、「みんなに手紙を書きたいんだけど、漢字が出てこなくて」と話していたことを思い出しました。


   ヘンロ小屋「酔芙蓉」


   石橋さんに関するちょっといい話はもう少し、続きます。私は「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会の副会長をしています。このプロジェクトは、き遍路が足を休めることのできる休憩所を作ろうという運動です。これまでに39棟が完成しています。
 石橋さんが亡くなって1年たったころに、兄弟からプロジェクトに100万円の寄付がありました。「保険金もおりたので、供養のためい」と。私たちは石橋さんの寄金で小屋を経てました。そえみみず遍路道の入り口です。小屋の名前は「そえみみず・酔芙蓉」としました。完成式をすることになり、昔の遍路仲間に連絡をとると、1泊2日で2万何千円もかかるのに、何と30人以上が参加しました。
 小屋に着くと、さらにうれしいことがありました。遍路道ではお接待という文化があります。お遍路さんに飲み物や食べ物を手渡し、もてなす風習のことです。そえみみず遍路道の入り口では、おばあちゃんが手づくりの袋をお遍路さんに手渡して、お接待をしていました。私たちもその袋をもらったことがありあります。
 私は酔芙蓉の苗木を大阪から持っていき、小屋の横に植樹する予定でした。ことろが、既に酔芙蓉の木が植えてあったのです。聞くと、そのおばあちゃんの家に酔芙蓉の木があって、それを移してくれていたのです。ありがたいですね。


   もういちど男と女


   ちょっといい話その4。ある時、後輩の偉いさんが、声をかけてきました。そのころ、私は「寺の花ものがたり」という連載を楽しく書いていました。後輩はその連載をやめて、他の書いてほしい、というんです。団塊の世代が定年退職を迎える時期で、その層を対象にしたページを作るが、その中に色っぽい話を入れたい、というのが主旨でした。つまり、中高年の恋の話を書けというんですね。
 びっくりしました。社会部系統なので、人の話はたくさん書いてきて、その人の人生の中で恋や結婚の取材をし、書いたことはあります。しかし、恋だけをテーマに取材というのは経験がありません。それなのに、後輩はもうタイトルまで決めていたのです。「もういちど男と女」。私は条件をつけて受けることにしました。条件とは、すべて取材をして書く、ということです。私は新聞記者なので、小説家のように想像の世界で書くことができません。だから取材が必要なんです。しかし、問題は取材に応じてもらえるかどうか、でした。
 まず、友人からアタックしました。次ぎは居酒屋の女将に頼みました。酒を飲んでいると、恋愛の話はよく出るそうなので、そういう客がいたら、「毎日新聞の梶川という記者が中高年の恋の話を取材しているので、協力してやってほしい」と頼んでもらったのです。2人の女将に頼みましたが、1人の店では8人もゲットしました。いろいろなルートで取材しましたが、書く時は当然実名は出さず、男性の主人公は「男」、女性の主人公が「女」と表記しました。


   110歳の金婚式


   私が好きな話は、次のようなものです。しょうもないと言えば、しょうもない話ですけど。富山県の山の中の住職が60歳で再婚しました。相手は東京の50歳の女性で初婚でした。田舎のことなので、寺での結婚式は地域の話題になり、当日はたくさんの人がお嫁さんを見に来て、配るお菓子が足りなかったそうです。住職は僧衣ですが、花嫁には事前の黒の留袖を送っていたそうです。しかし、奥さんの方は初婚なので、どうしても白無垢を着たくて、その通りにしたのです。そんな奥さんから取材をしました。
 結婚してしばらくたったころ、奥さんが地元の新聞を見ていました。金婚式という欄を見ていたのです。金婚式を迎えた夫婦の名前が載っていました。すると、ご主人が「金婚式しようか」と言い出したそうです。「あなた、何歳になるか分かっているの」「110歳」「それなら私は100歳よ」「じゃあ、やろう」。そんな話をしたんですって。ただそれだけの話ですけど、いい話と思うんです。実はそのエピソードを聞いたのは、結婚して19年目でした。相変わらず仲良くやっていいました。そこで、記事の1番最後は「金婚式まであと31年になった」にしました。


   最後の電話


   社会参加が大事じゃないか、いい話の根底に社会参加があるのではないか、と言いました。恋愛が1番簡単な社会参加ですね。ですから、みなさんどんどん恋愛してくださいね。中高年の恋なので、どこかに死の影があります。それがかえって純粋さを増していきます。若いころの恋も純粋かもしれませんが、それとは別の、先が見えていることによる純粋さです。その例となる記事を、途中を略しながら読んでみます。
 【最後の電話】朝起きてみると、夫は亡くなっていた。「別れ際に、何か一言でも声をかけたかった」。女は心の底に、落ち着かないものを抱いていた。
 夫には、「男が男にほれた」と言ったほどの友人がいた。…略…
 その男を訪ねて、女は大阪から新千歳空港に飛んだ。…略…
 話は尽きなかった。長い闘病生活と看病の話もした。「あんた、よう頑張ったから、旅行にでも連れてったろか」。豪快な言い方と優しさは、昔と変わらなかった。女はうれしかった。夫の病気がよくなれば、夫婦で旅に出るのを楽しみにしていたので。
 伴侶を失くした者同士の二人旅が始まった。年に2回から3回。「近い所はいつでも行けるから」。そう言って、女は北海道旅行をねだり、男が計画を立てた。…略…
 「仲のいい夫婦ですね」。旅先で何度か声をかけられた。宿に着いて、女は聞いた。「うれしいやろ?」。男は素直に言った。「うん、うれしいな」
 二人は精神的なものを超えた深みに入っていくことはなかった。女の夫は、ある時期から男性的な能力を失った。そんな体験が影響しているのかもしれなかった。男には「大切な友だちの妻」という意識が働き、一歩引いたところがあった。…略…
 初めて関西を旅したのは、10年近くたってからだった。別れ際に男は頼んだ。「5分でもええから、しょっちゅう電話してや」
 女は毎晩のように電話をした。1週間目、その日に限って男はしゃべり続けた。1時間が過ぎたころ、電話の子機がポトリと落ちる音がした。女は何度も名前を呼んだが、返事はなかった。
 翌日、女は男の家族から、前夜の出来事を知らされた。孫が「おやすみ」を言いに行くと、男は血をはいて倒れていた。救急車で病院に運ばれたが、意識を回復しないまま、息を引き取った。
 女は書きためた般若心経100枚を速達で送った。写経はかろうじて葬儀に間に合い、棺に納められた。男の家族は電話でそのことを伝え、言葉を継いだ。「おばちゃんのおかげで、10年間長生きさせてもらった」
 劇的ですね。「電話をかけてくれよ」と頼んで1週間後に亡くなる。その日に限って1時間も話し、その電話の最中に亡くなる。何となく、将来が見えるんでしょうね。


   感動のリレー


   お遍路さんの話でもう1つだけ話をさせてもらいます。神戸にあしなが育英会の学生さんの大学生寮があって、私はそこの寮生の読書感想文を見ています。あしなが育英会というのは、親を亡くした子どもたちの奨学制度です。奨学資金は寄付金で成り立っているので、学生は感謝の気持ちや、支えられている、という気持ちの強い人たちで、そんな前提があるとして聞いてください。
 昨年、学生が遍路に行ってみたいというので、4人と一緒に2泊3日で、徳島県の17番井戸寺から20番鶴林寺を過ぎたところまで歩きました。井戸寺を出発して峠を越えたあと、バスの待合所で休憩しました。終点の停留所なので建物になっていて、中にトイレがあったからです。バスを待っていた女性が「お接待」と言って1000円札を差し出しました。学生は驚きますよね。札所に納める「納め札」に住所、名前と「感謝」と書いて気持ちを示すのだと教えました。
 一緒に歩いたお遍路さんには、お菓子のお接待をいただきました。午後6時すぎに19番立江寺を出て、夕食用のおにぎりを買い、その晩に泊まる「寿康寿康亭」を目指して歩いていました。そこはお寺が自由に使ってください、と設けた小屋です。
 ガソリンスタンドの前を通ると、ご主人が「どこに泊まるのか」と聞き、「寿康寿康亭」と答えると、「あと3キロ」と教えてくれました。さらに歩いていると、さっきのご主人が自転車で追い抜いていき、「後で女房が軽トラックで通るので荷台に乗せてもらい」と親切に言ってくれました。


   どうしても欲しかったカップ麺


   奥さんの軽トラックに乗り、小屋に着きました。おにぎりを食べようとしていると、また奥さんが現れ、お接待として、徳島ラーメンのカップ麺を5人分差し入れてくれました。具がレトルトパックに入っているので、普通のカップ麺よりやや高いものでしょう。奥さんとの短い会話の中で、私たちがはしを持っていないことがわかりました。奥さんはその後で、再度現れ、わざわざはしを持ってきてくれたのです。私たちはありがたくいただきました。翌日も干しイモやポケットチッシュのカバーなどのお接待を受け、泊まった遍路宿でも1000円のお接待を受けました。
 3日目は1人の学生が帰らなくてはいけなくなり、早めに徳島駅前から神戸行きバスに乗ることにしました。チケットを買うと、バスの出発まで15分ほど時間がありました。すると、1人の女子学生が学生寮の同室の友だちにお土産を買って帰りたいと言います。ついては、ガソリンスタンドの奥さんにいただいたカップ麺にしたいと。
 私は土産物屋を教えました。学生が帰ってきて「普通の徳島ラーメンはあるけど、あの徳島ラーメンはない」としょげているのです。そこで、駅の地下の徳島の物産を売っている場所に一緒に行きました。残念ながら、そこにもなかったんです。出発時刻が迫り、学生はあせります。もう1カ所、土産物屋を教えると、学生は思いっきり走り出しました。そうすると、大きなガラスの自動ドアが開くのが間に合わず、学生はガラス戸にゴツーンとぶつかったのです。そして、最後の土産物屋に行ったのですが、例の高めの徳島ラーメンはなく、普通の徳島ラーメンを買って土産にしていました。
 僕はものすごくいい話だと思うのです。その学生は自分がどんだけ感激したかを、友だちの伝えたかった、お接待のリレーをしたかったんですね。そのためには、自分が食べたカップ麺が欲しかったのです。やや高いとは言っても、200円くらいでしょう。でも、値段は関係ないのです。感動こそが大事なのです>


↓写真=川西市多田公民館での講演
=2010年7月29日

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