シンポジウム「お接待とヘンロ小屋」



 《「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会の第5回総会(2011年3月20日、松山市総合コミュニティセンター)の記念シンポジウムの詳報です。支援する会愛媛支部が主催しました》




【パネリスト】
◇徳田登子夫さん(遍路休憩所神南(かんなん)堂主、ヘンロ小屋38号・内子の建設協力)
◇渡辺浩二さん(ヘンロ小屋34号・久万高原推進)
◇丸尾瞳さん(ヘンロ小屋16号・宇和でお接待)
◇八石玉秀さん(ヘンロ小屋・内子、ヘンロ小屋・久万高原、ヘンロ小屋41号・今治・日高を建設した愛媛信用金庫の常務)
◇歌一洋さん(ヘンロ小屋プロジェクト主宰者)
◇司会 梶川伸(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会副会長


梶川 私は大阪の方にいるわけですけど、ふと四国へ行ってみようかなと思うことがあります。私の友だちの中は「生活や仕事に疲れたら四国に行くんや」と言う人もいます。あるいは、「四国にでも行ってみるか」という人もいます。何でかいな、と思うわけですが、どうも四国は居心地がいいですね。それはきっと、遍路文化やお接待にかかわっているのだと思いますので、そういうテーマでシンポジウムをします。最初に自己紹介を兼ねて、それぞれの方が休憩所やヘンロ小屋にどうかかわっているかをお話願います。では、徳田さんから神南堂とはどういうものかを。


   15歳のお遍路さんとの出会い
 

徳田 私は平成10年ぐらいに、事務所を大洲市と内子町の中間くらいに移転しました。移転すると、お遍路さんが毎日のように通り、うちの前で休んでいたりしました。そのころから、お遍路さんに休んでもらえるようなものを造りたいなと、計画を始めました。平成16年の7月ぐらいに始めまして、従業員も一緒に山に木を切りに行きまして、杉の皮をはいで、つくっていきました。ちょうど完成の日に、15歳の大阪のお遍路さんが立ち寄ってくれました。中学校3年の登校拒否の子で、大変感激してくれました。たまたま、「おじちゃん、休憩所の名前をつけたらええわ」とゆうてました。その後、連絡がつかんので、「うちに方で名前をつければええわ」思うて神南堂とつけたんです。12月にこの子が、お遍路で撮った写真展を徳島でやるゆうて、たまたま連絡をもらいました。それで、徳島まで見に行かしてもらいました。その時に「とうこうてい」という名前をつけてくれたんですけど、表に神南堂とつけていたもんですから、中に「とうこうてい」と取り付けました。今、神南堂と「とうこうてい」という2つの名前がついています。
 その子は中学の卒業を延ばしたんですけど、自分の力で高校も卒業しまして、今は大学で活躍しています。昨年、この子が世界1周をやるのに、またうちに立ち寄ってくれて、1晩泊まってくれたんです。この子が書いた本の中に、5年ぶりに再会しましたということで、うちに立ち寄ったことが詳しく書かれています。大変いい思い出にもなりました。
 お遍路さんと会話するのも大変素晴らしい。世界中の人と会話ができる。英語で話されたら分からんけど、何とかやっとたら分かる点があるんで、休憩所をつくってよかったなと思っています。3年前に、五右衛門風呂も完成しました。利用してくれる人は月に1人か2人。夏場はもっと多くなるんですけど。10日ぶりにお風呂に入ります、という人もいます。
梶川 いつもお風呂は沸かすのですか。
徳田 まきを置いてあるので、お遍路さんが自分でまきを燃やしてもくれるし、気がついたら一緒にまきを燃やします。
梶川 「とうこうてい」は登校拒否の「登校」ですか?


   真民の碑と並ぶヘンロ小屋・久万高原


   梶川 次の渡辺さんに、ヘンロ小屋とのかかわり合いを簡単に話してもらいます。 渡辺 私は久万高原町から参りました。ヘンロ小屋34号・久万高原の建設を担当させてもらいました。四国霊場四十四番札所・大宝寺と四十五番札所・岩屋寺の中間点に峠御堂(とうのみどう)という峠がありまして、そこにトンネルがございます。ふるさと旅行村に行く手前、峠御堂トンネルの山側を造成して、この小屋を建ててございます。これは地元、愛媛信用金庫さんのメセナで、久万支店のみなさん、久万高原町役場の建設課、町長さんの支援もあって、土地提供者の久万造林株式会社のご理解もあって、地元ボランティアのみなさんのご協力、私が勤めています久万高原町商工会、そういう団体の協力で建立されたものでございます。
 デザインでございますが、うちらの町は85%が山林の町でございます。歌先生が特別に杉の木をデザインしたものを設計してくださったわけですが、瀟洒で温もりのある建物になっています。多くの歩き遍路さんや、マイカーの方が利用します。四十三番の「あげいしさん」、つまり西予市の明石寺から四十四番大宝寺までは、西予市から大洲、内子と通り、歩きだと2泊3日かかります。しかも山道で、峠をいくつも越えて来られるので、非常に足が疲れる。そして、岩屋寺さんというのは、山の中腹をくり抜いてお寺があるわけですが、そこに上がるのは難儀で、みんさんは「岩屋寺さんはきついわ」と言われますように、大変歩行で疲れる途中に建っているのがこのヘンロ小屋で、足をいたわる小屋になっています。
 また、愛媛の偉大な詩人、坂村真民先生の「大宇宙 大アース」という詩碑があります。先生の詩碑は「念ずれば花ひらく」で有名です。先生の詩碑は世界中に800もあります。仏教詩人の先生の詩碑がくしくも歌先生のヘンロ小屋のところにあるんです。小屋の建っている後の方の久万造林さん持っている森は「マリーザの森」ということになっております。(千葉県)浦安に本拠地を持っている団体で、ひきこもりやニートの青年を回復させようとしている団体があります。浦安から毎年、春と秋に心を癒そうというか、回復させようということで、5人から10人、20人と、1週間四国中を回るグループが来られています。その方々が春秋にマリーザの森に来ます。引きこもりの青年たちを回復させようと尽力したイタリア人のマリーザさんの名前をとった森です。4年ほど前に記念植樹をしてもらいました。青年たちはマリーザの森に来ると、枝を揃えたり、草を刈ったり、手入れをしています。坂村真民先生の碑とマリーザの森の目の前に、歌先生のヘンロ小屋がある。しかも、久万の杉で作られています。そんなことで、非常に愛されています。地元民として、非常に感謝しています。
梶川 あの辺りはダラダラ、ダラダラ登っていくところで、しんどくなって、休憩したくなるところです。次に、丸尾さんに、ヘンロ小屋とのかかわりあいをお話願います。


   知らぬ間におもてなしの心


丸尾 私は、(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会)愛媛支部長をしている村上(敬)さんが会長を務める東洋開発株式会社の焼き肉レストラン東洋軒の宇和店で、開店以来働かせていただいています。村上会長がヘンロ小屋16号・宇和をつくられる前に、「丸尾さん、車3台分くらいの止める所がなくなるんだけど、大丈夫かな」と言われたのが最初です。実は東洋軒が開店して2空年目だったと思うんですけど、お遍路さんを店の横の軒下に2人ほど、野宿をしていただいたことがあるんです。店長には許可をとりましたけど。その時のことをフッと思い出して、「大丈夫ですよ」とすぐ答えました。これでお遍路さんが、雨に濡れず休むことができるし、安心して泊まることができるなって、思ったんです。大阪にいて亡くなったおばが、八十八カ所を何十回も回っていたんです。歩きじゃなくて、バスですが、和尚さんに連れられて来ていました。私は高校生だったんですけど、母と一緒に、ヨモギ餅をお遍路さんが泊まられている宿に持っていったのが始めてのお遍路さんへのお接待でした。そのことなどをいろいろ思い出しまして、会長の言葉はうれしく思いました。
 今回、私の紹介のところで、宇和店でお接待となっていますが、実は最近私はあまりしていないんです。というのは、ほかの若いスタッフが、お店に来られているお客さんの状況にもよりますが、気付いた人が「お接待行ってきまーす」と言って、知らん間に行っています。さらに、お遍路さんが休まれているんだけどな、と思っても、店の状況で行けない時があるんですね。その時に行こうとしていたスタッフが「あ〜あ、行かれなかった」と言うんですね。私は「大丈夫、大丈夫、次に来られて休まれるお遍路さんにも、おもてなしに行ったら、それは通じるからね」と言います。私はもう、引っこんでます。
 店の接客というのはマニュアルがあって、段階に応じて教育をしていきますので、あまり気にならないです。しかし、お接待というのは多分、最初は気恥ずかしさがあるんだと思うんです。でも何回か行っていると、お接待をして帰ってきた者が「この暑いのに、北海道からと」「栃木からと」「足が痛くて大変みたいだった」と、必ず一言あるんですね。たった一言ですけど、これを聞いているうちに、働いている人間に知らぬ間におもてなしの心ができてきて、気恥ずかしさが知らん間になくなって、現在は次々、若い人たちが行っています。私は今日は、「みんなの代表で行ってくらい」と言ってきました。


   地域の人が掃除、ごみ拾い


 梶川 いいお話ですねえ。接客という言葉があります。お接待も接客なのかもしれないけれど、2つは違うんだということが、今の話でよくわかりました。次に八石さんに、ヘンロ小屋とのかかわり合いをお願いします。
八石 私ども愛媛信用金庫では「ホームドクドクター愛媛信用金庫」ということで、地域の活性化に取り組んでいます。その中では、いろんな活動に取り組んでいるわけで、事業者の経営支援、生活基盤の支援のほか、地域文化への貢献にも取り組んでいます。そういった中で、歌先生がされている八十八カ所のヘンロ小屋の活動、お接待の心、触れ合う心といものが、私どもの経営理念に合っているということになりました。地域を活性化することにつなげていこうということで、せちがらい世の中で、行き過ぎた資本主義の早いもん勝ちといいますか、もうけたもん勝ちというんじゃなくて、地域の方々がお接待をしたり、助け合うという、そういったことにつながるということで、現在、私どもの愛媛信用金庫といたしましては3カ所、ヘンロ小屋を建設いたしました。1号が久万高原で、渡辺さんに大変お世話になってつくらせていただきました。2つ目は内子町で、徳田さんにも大変お世話になりました。そして、去年の12月には、ヘンロ小屋41号・今治・日高ができました。今日は(特別養護老人ホーム)日高荘のみなさんもみえていました。
 私どもは直接的には、建築をすることについての寄付をしているわけですが、実際の運営には地域の方に大変お世話になっています。ちょっとした掃除であったり、お遍路さんへのお接待であるとか。私どもも力及ばずではありますが、職員が掃除をしたり、できる範囲でのお接待はしております。1週間に1度程度見に行くと、あまり汚れてないんです。地域の方々が掃除をしてくれたり、ごみを拾ってくれたり、普段からしていただいている次第です。私どももこのような活動を今後も続けていきたいと考えています。
梶川 信金さんなので、身近な金融機関ですよね。そう意味で地域とのかかわりが強いんでしょうけど、私は41号今治・日高というのは、これまでのヘンロ小屋の中では非常にいいケースだと思うんです。ちょっと説明がありましたけど、老人ホームの敷地にあるんです。そうなると、お年寄りたちとお遍路さん、お年寄りたちと地域に人たちの触れ合うような場所になるんですよね。これは歌さんがいつも言っている年齢差を超えた、世代を超えた交流ができるのではないかなあと感じます。次に歌さん、今のお話を聞かれて感じたこともお話をしてほしいのですが、なぜこういうことを始めたかも説明願いたいと思います。さらに、僕はさっき徳田さんが話してはった、そう気持ちは世界に通じるんだ、言葉はわからなくても心は通じるんだということが、歌さんがよく言っている「見えるもは広がらないけれども、見えないものは広がる」ということにつながると思うので、その点に関して、歌さんに思いがあれば、一緒にお願いします。
 

   四国の温かい心、支え合う心


歌 このプロジェクトを始めました気持ちは先程(シンポジウムの前に行った歌さんの各ヘンロ小屋の解説)1つだけお話させていただきました。18まで実家で、お遍路さんにお米をあげたり、5円をあげたり、お接待していたということです。それは、小さいころです。その後、建築の設計をしまして、文化というものには興味がありますので、外国旅行をしたりいろいろなことをしました。そうすると、四国遍路のシステムというか形は世界中に全くないと気づきました。キリスト教でも、単線で行って終わりですよね(例えば、サンチャゴへの巡礼道)。そして今はもう、おもてなしの精神は少なくなっています。四国には、お接待とおもてなしの文化が非常に強く残っています。それと循環という、何回も気がすむまで回れます。この2つは世界中にないんです。それに気がつきました。それに空海という人に超人的なものを感じました。当然興味があったということですね。20年くらい前から役所に、遍路文化を守るために働きかけたんですが、その当時は見向きもしてくれませんでした。じゃあ、私がやろうかなと思って、10年くらい前から始めたわけです。
 小屋は小さなものです。2坪から10坪くらいのものです。みなさんが寄ってたかってつくってくださる。行為は体にしみついていくと思うんです。体を動かすことによって、体に入る、心に入る。それが小さな小さな点、この場合は小さな小屋の点で、四国八十八カ所の小屋は私は89の小屋ができればいいと思っています。日本中から外国からもお遍路さんが来ます、四国の方々の温かい心、お接待する心、支え合う心、無意識のうちに流れている好意が、多分来られた方々の心に入っていくと思うんです。それが日本に、世界に広がれば、もうちょっと、温かいというか楽なというか、ギスギスしない世界になるんじゃなかと思っています。そのことは、村上さん(愛媛支部長)も最初から、世界中に広めなあかんとおっしゃっています。


   外国からも年賀状


梶川 ひと通り自己紹介のようなものをお話していただきました。徳田さんは、ご自分たちで休憩所をつくられたのですが、かなり苦労されたのではないですか。
徳田 私は土木と建築の仕事をしているもんですから、どうしても夏は暇になることがあるんですよ。そういう意味から、やるんじゃったら今だということがありました。従業員も賛成してくれるし。それで、山に行って50年くらいの大木を切って皮をはいで、という感じで始めました。
梶川 従業員の方は「嫌だ」とは言わなかったのですか。
徳田 休むよりは出てきた方がええ、いう気持ちがあったんじゃないかと思います。(お遍路さんに)休んでもらえるゆうのが、心に通じたんじゃないでしょうか。
梶川 もともと、そういう気持ちを持っておられたということもあるのでしょうが、お遍路さんにお接待をし、交流している中で、そういう気持ちが育っていったということでしょうか?
徳田 毎朝、うちに前をお遍路さんが通ります。昼間は少ないんじゃがね、3時ぐらいに通られた方は、テント張って寝てくれる人がおります。それと、雨が降りよる時は、従業員の休憩所をプレハブで造ってるんですけど、そこで休んだらどうですか、と言うんです。そこで休む人と、「ヘンロ小屋で結構です」という人がいます。泊まってもらうというのが、私の思いで、銭湯に一緒に行ったり、夕食を食べたりしてるんです。そうすると、外国の人も年賀状をくれたりするので、優しい人じゃなあという気持ちと、やってあげてよかったという気持ちが混じります。
梶川 善根宿的な役割も果たされているわけですね。
徳田 泊まれる人は泊まってください、いうことです。最初のころは、おにぎり作って持たせたり、朝、みそ汁を一緒に食べたりということもあったんですが、なかなかできないことが多なりました。
梶川 私も善根宿に泊めていただいた時の思い出が非常に強烈なので、いたる所で話をするのですが、私が泊めてもらったところはまず、お風呂に1番に入れてくれはるんです。夕ご飯も食べさせていただいて、その日はそこのご主人の機嫌が良かったのか、「わしゃあ、遍路と酒を飲むのが好きじゃきに」と言って、酒まで飲ましてもらいました。朝ご飯を食べさせてもらって、お昼のおにぎりまで持たせてもらいました。農家の方で、こんな言い方をするんです。「うちは農家だから、食べるものはある」。食べるものといっても、野菜だとかお米があるというということですよ。それを、4人家族だから「4で割るところを、5で割ればいいだけだから、気にする必要ないよ」と言うんです。泊めてもらった人はノートに住所と名前を書くのですが、そのノートの表紙に書いてあった言葉が「本日家族増員名簿」なんですよ。徳田さんのお話を聞いていて、そんなことを思いだしました。八石さんは信金としてヘンロ小屋の建設にかかわっていただいているわけですが、地域の方々との関連と言いますか、協力と言いますか、なかなか難しいところがあるんじゃないでしょうか。


       何十人、何百人の手で小屋づくり


  八石 小屋を造っただけでほおっておくと、汚れていくことにもなるのですが、地域の方が世話をしてくださるのですよ。41番の今治・日高は、小屋の隣にお遍路さんの無縁仏が集まっています。もともと、お遍路さんに対して奉仕する、お接待をする地域です。先日、私は日高荘にちょっと寄らしてもらったんですが、きれいにしてあって汚れてない状態で、助かっております。
梶川 私たちは歌さんのヘンロ小屋造りを手伝っていますが、完成した後、どう維持管理すれば良いのか、私たちはどう手伝えるのか、最近のテーマがそれなんですね。今のお話を聞いていると、地域の方々がそういう風に心を込めてやっていただいていると、私たちもうれしくなりますね。渡辺さんは小屋を造っていく過程で、かなり苦労があったと聞いています。紆余曲折も含めて、苦労話を聞かせていただきたのいですが。
渡辺 愛媛の村上支部長さんから、このプロジェクトのお話があった時、「久万で是非1カ所建ててください、スポンサーには愛媛信用金庫さんがなってくださるようですよ」ということでした。早速、町長とも相談して、大宝寺の入り口がええぞ、久万の街中がええぞ、ということになりました。第1候補地として町有地の児童公園を選定したんですね。橋があって、10メートルほど下にある平地が遊園地なんですよ。ですから、地上に出るというか、お遍路さんがその小屋の入ろうとしたら、橋と同じレベルでなきゃいかんということで、火の見やぐらみたいになるわけです。下の地面には柱を埋めんといけませんから、長さ12メートルくらいで直径30から40センチの柱を4本揃えてくださいという設計上の注文が出てきたんですね。これはいくら山林の町、久万といってもねえ。町有林を2回も見に行ったんですよ。ちょうどいいものが全然ないんですね。それで、この場所はダメだということになって、現在の場所になったわけです。
 ところが、山を切り崩して造成した場所で、ちょうど真民さんの「大宇宙 大アース」の詩碑がありました。真民先生は朴(ホオ)の花が好きで、ですからファンクラブも「朴の会」といい、詩碑の後にホオの木を植えて、15年くらたって、ちょうどきれいな花が咲いた最初だったんですよ。大工さんが小屋を建てる時に、このホオの木をのけてもらわんと建たんと言うんです。真民先生が亡くなった後だったので、ファンクラブの人が「ホウの木は真民先生の写しだから、どうぞ切ってくれるな」と言い、けんかというか、議論になりました。「この小屋でお遍路さんが助かるんだから、ホオの木はまた芽が出るじゃないか」と説得して、建てさせていただいたエピソードが残っています。
梶川 歌さん思い出しましたか?
歌 最初、十何メートルかの火の見やぐらのようなもので、私はいいなあと思ったんですが、そういう訳で。確かに大変だったと思います。でも今でも、真民先生の詩碑もありますし、峠ですし、記念の山ですし、いろんなもんが重なっていて、結果的には良かったかなあと私は思います。
梶川 小屋づくりの時に、いろんなパターンの協力の形があります。いろんな形があるんだということを歌さんの方から説明していただけますか。 歌 1つの形が高知県の寄付(28番松本大師堂のケース)ですかね。850人が寄付してできました。100円から何万まで。寄付によってつくれるところもありますし、全くお金がなくてつくった所もあります。地元のボランティア団体さんが竹とか木を山から切ってきてつくったのもあります。ファミリーマートさん、サンクスさんもつくってもらっています。土地を提供していただき、最終的には小屋を市町村に寄付するケースもあります。ロータリークラブさんの寄付もあります。
 最近ではよく協力してくださるのは、信用金庫さんですね。実は最初の取っ掛かりは、高知の幡多信用金庫さんです。理事長さんがお遍路さんに非常に深いご理解を持っておられまして、ご自身も歩いて回っておられます。その方が四国全県の信用金庫さんに、このプロジェクトへ協力しようと言ってくださって、結果的に(信金によるヘンロ小屋づくりが)西の方から右回りにだんだん回っていっているんです。徳島でも土地さえ見つかれば、信用金庫さんがつくってくださるところもあります。企業も個人もあります。100万とか何十万とか、小屋のために使ってくださいという資金もいただいております。1番多いのは、地元の方々の何十人、何百人の手、あるいは言葉によってつくられていくのです。いろんな所で、一緒につくるということが起きています。


 休んでもろて、よかた


梶川 それは、歌さんの思いがみんなに伝わってきて、だからいろんなパターンのつくり方ができてきたということなんでしょうね。
歌 そうなんでしょうかね。ともかく、やっていることは悪くないと思うんですよね。それに対して、ご理解をいただいているということでしょうかねえ。これは、誰のもんでもないですからね。要するに、先ほどの精神を広めるための手段ですから。もちろん、お遍路さんは喜んでいただいてますし、自然と膨らんでいったらいいんじゃないでしょうかね。
梶川 私がこの活動に参加させてもらって思うのは、思いの強さです。歌さんも思いが強い。歌さんが大金持ちかというとそうではない。もし大金持ちであれば、自分で勝手にヘンロ小屋をつくればいいわけです。そうではなくて、みんなでつくろうという思いの強さがあります。実際にみなさん方に協力をしていいただき、あるいは神南堂さんのように思いがいつの間にか広がっていっていると思ってならんですね。
 これから、お接待のことに入っていこうと思います。徳田さん、実際にお接待をされていて、自分の気持ちも変わっていくんですか。
徳田 自分も変わると思います。ちょうど、うちが遍路の中間点を過ぎたくらいの場所なんですけど、「こうここまで来たら先が見えたようなものですよ」というような話を聞くと、つくっとって良かったなあ、休んでもろうて良かったなあ、と身にしみますねえ。
梶川 お遍路さんとの交流、かかわり合いについて先ほどお話がありましたが、ほかにも例がありましたら、お話しください。
徳田 1番印象に残ったのは、先ほど言いました15歳のお遍路さんです。休憩所ができて1年目くらいでしたか、家族でうちに来て、泊まってくれたんです。その後、お父さんから電話をもろたり、お母さんから電話もろたりして、良かったなと思います。中学校も行かずに、高校の入試を自分で受けて、そして卒業して今大学に進んどるんです。昨年に日本1周をして、うちに泊まってくれてました。うちに孫ができとって、「家族が増えたんですねえ」と言うくれ、身内以上の身内みたいな気がするんです。その子は「お父さん、お父さん」「お母さん、お母さん」と言うてくれるんですよ。親子みたいな気がしますね。
梶川 「四国の父」ですね。それは、遍路というものの力なんでしょうか、徳田さんのお接待の力なんでしょうか。
徳田 何か、お互いに、心が安らぐとことろがあるんじゃなかろうかと思います。
梶川 徳田さん自身も安らぐのですか。
徳田 話しよったら、親子みたいな感じになります。多くの人と話しますけどね、何か陰のある人というのがあるんですが、話しとったら、いい人だなあということになります。また連絡してくださいよ、と言ったら、「分かりました」と言って、はがきもろうたり。良かったなあと本当に思います。
梶川 従業員の方も大分、変わったでんですね。
徳田 そうですね。朝、従業員が来て、お遍路さんが泊まっていた時は、お米を持ってきてあげたり、自動販売機で温ったかいコーヒーを買ってきたり。従業員の方がお遍路さんと一緒にお話ができるようになりました。最初は、外国の人なんかはなかなか、話ができません。言葉が分からんけん。
梶川 どうやって話すんですか。
徳田 こうやって(身振り)「飲みますか」とか、いうぐらいの感じなんですが。ドイツの子がいっぺん、うちに泊まってくれて。風呂に連れていったら、風呂につかるいうのが大変じゃったみたい。夕食食べて、僕は運転手せなあかんので、その子だけビール飲んで、一緒に帰ってきました。。
梶川 英語なら通じる言葉があるでしょうが、ドイツ語だと難しいですね。。
徳田 それがね、日本語もしゃべれるし、片言ですが。通じることは通じました。


   真珠の涙と感激の涙


梶川 最近お接待をしてないという丸尾さん、これまでのお接待、グループの方のお接待で、お遍路さんとの具体的な交流の例を教えてください。
丸尾 お遍路さんの一言集(ヘンロ小屋に置いてあり、お遍路さんが自由に書き込むノート)の去年の7月21日に、「炎天下の中、一休みと思い立ち寄りました。お店の方にスイカやパイナップルのフルーツと、氷の入ったお茶をいただきました。ありがたくて、ありがたくて、ありがたくて、ありがたくて」と書いてあります。この方をお接待した人のお話をしたいと思います。お接待の体験報告として、うちの会社の村上会長に出した手紙がありますので、それを読ましていただきたいと思います。「お遍路さんからもらった真珠の涙」という題で書いています。
 先日、休憩をされていたお遍路さんへ、「こんにちは、どちらからお越しですか。十分なおもてなしもできまえんが、冷たいお茶と果物です。器は後で取りにまいりますので、ごゆっくり休んでくださいね」と言葉を交わし、店に戻りまいた。しばらくして、「どうしても、一言お礼を」と、そのお遍路さんは店を訪ねてきて声をかけていただきました。すると、涙で言葉にならないお遍路さんは、大きなリュックを背負ったまま私の手を握り、何度も何度も、「ありがとう、本当に身も心も命さえも救われましたよ。命の水をいただき、ありがとう」とおしゃいました。「気持ちは十分わかりました。どうか、頭を上げてください」と言った瞬間、お遍路さんの頬に大粒の涙がポロポロ伝わり、まるで真珠のようでした。私もその涙に感銘を覚え、涙が止まりませんでした。その私の泣き声を心配して、店長と主任たちが「どうしたの、何があったの」と聞かれましたので、お遍路さんとの出来事を話すと、「いいことができてよかったねえ。心をこめたおもてなしが心に届いたから、感謝の気持ちが涙となったんやね。よっぽど、うれしかったんやろうね」と、私の気持ちを共有、共感してもらい、優しさいっぱいの言葉が広がり、厨房には笑い声があふれ、みんなに至福の時間が流れました。
 以上ですが、このスタッフは最後に「私はこれから、1人1人の出会いを大切に、人を大事にし、思いやりを持って、店での接客にも努めたい」とも言っています。そして、「お遍路さんに出会えたことを、心から感謝します」と書いていました。お遍路さんは、横浜出身の30代の若い男性でした。その後、会長から私たち宇和店に、ねぎらいと喜びのお手紙をいただきました。それも読ませていただきます。「宇和店のみなさまへ。毎日お疲れさまです。いつもお遍路さんへの気配りをしていただきありがとうございます。体験報告を読み、うれしく思いました。お遍路さんはお茶や果物を通して、その奥にあるいたわりの心を受け取られたので、感動されたのだと思います。人を幸せにする人が、最も幸せな人だと思います。宇和店のみなさんが一体のチームとなって、癒しの心を振りまいていかれることに深く感謝しています。本当にありがとう」というのをいただいて、みんなで回し読みしました。
梶川 いい話ですねえ。村上支部長(会場にいた)、いい仲間をお持ちですね。そういうようなお接待をしていることが、日ごろの仕事にも関係してきますか?
村上 お客さんからほめていただく手紙、はがきが何枚も来ます。クレームも少しはあるんですが、ほめていただくはがきは断然多いです。
梶川 それはお遍路さんへのお接待ではなくて、接客でほめてもらっているんですよね。

村上 お遍路さんと関係ないです。 梶川 お接待をすることが、日ごろの態度に現われてくるということでしょうか。
村上 そんなことを考えて小屋をつくったわけではないんですけど、結果的にお接待の心というか、優しい、ちょっと手を貸してあげるという日本民族最大の良さ、それをみんな持っているわけで、それが表に出てきて、営業面でもいい効果をくださっているように思います。


 社員教育をヘンロ小屋で


梶川 歌さん、いまの話を聞いて、どうですか。
歌 人間の生きる原点の心が形に表れていて、私のヘンロ小屋をつくるイメージにかなり近いので、感激しています。実は、幡多信用金庫さんなどはヘンロ小屋をいくつもつくってくださって、つくった小屋で新入社員さんに小屋で1週間ほどおってもらって、お遍路さんをお接待しているようですね。その小屋を利用しながら、社員教育かどうかわかりませんが、お接待をしてるんです。私は前から、つくられた企業さんは、社員さんに小屋に行っていただければ、何かは得られるものではないかと思っています。1号をつくられたのは野村さんという女性の方なんですけど(ヘンロ小屋1号香峰=徳島県海部郡海陽町、野村カオリさん)、小屋にはお遍路さんがよく休んでくださるんです。その野村さんは、小屋に置いてあるノートは貸してくださらないんです。「これが私の宝だがら、墓場まで持っていく。なくなったら困る」と。それと、日本中に友だちができたと喜んでいます。
梶川 今、幡多信金さんの話が出ていましたが、愛媛信金さんの方でも職員の方がかかわるようなことがありますか。
八石 私どもも、意見箱というのを小屋の中に置いています。久万高原町の小屋は、峠の所にトンネルがあるんですが、結構暗くて危ないという意見がありました。トンネルは、反射鏡みたいなたすきを首につけて通るようになってるんですが、岩屋寺側の方の入り口は知らん間にたすきが少なくなってきました。私たちの久万支店には、1週間に3回、4回そこを通る担当者がいるんですが、その時はちょと休んでその数を数えてくれ、たすきがトンネルの一方の入り口に片寄っとったら、半分反対側の入り口に移しといてくれ、と頼んでいます。お接待というか、ホスピタリティーというか、見返りを求めない奉仕の心は尊いですよね。さきほどのお話を聞いて、ちょっと涙が出えてきました。
梶川 僕も涙が出てしまって、恥ずかしいです。
歌 愛媛信用金庫さんも、幡多信用金庫さんのように、1週間に1度でもいいですけど、社員1人ずつ交代で小屋におってもらったらどうですか。愛媛信金さんはつくっていただいたので、みなさん愛着というものがあると思いますから。朝から晩までずっとおったら、いろんなことが見えてくると思います。モノはモノで大切ですが、次の段階としてそうすれば、みなさんの気持ちがちょっと変わるんじゃないかという気がしますけど。ぜひ、やってくださいませ。大阪のいろんな社長さん方に、有給休暇を与えて四国に1週間くらい行かせるようにしてください、とよく言うんです。社員教育どうのこうのよりも、小屋におったら絶対その心は伝わると思うんです。
八石 まず私から参加します。


   小屋づくりがブームに


梶川 渡辺さんのところは小屋ができて、地域で変化はありますか。
渡辺 平成21年6月17日竣工ですから、2年がたったということです。あげいしさんから四十四番大宝寺、そして四十五番岩屋寺に行って、今度は打ち戻しといって戻ってくるんです。そして四十六番浄瑠璃寺へ歩き遍路の方は行かれるわけですが、最近は10カ所以上に(休憩所は)増えとる思います。歌先生のヘンロ小屋が建てられて、それを見たためかどうかはわかりませんが、個人的に「よし、わしも建てる」と、自分の土地に自分で設計して、自分で費用も出す人がいるんです。お遍路さんが寝ようが、休もうが、構わんということで。それを見て、国も国道沿いに、県も県道沿いに、町も町道沿いに、官民あげてのお遍路小屋ブームになっています。
梶川 これは歩いているお遍路さんにとっては、とてもありがたいことです。少しでも休める所、足を伸ばせる所があると、とてもありがたいですからねえ。ずっと話してきましたが、それぞれの方が今後このようにしたい、ということがあれば、話していただきたいと思います。まず徳田さんのから。これまでしてきたことを続けるということでしょうか。
徳田 無理のない、長続きのできるお接待がいいんじゃないかなあと思っています。できたら、元気の間、お遍路さんと話ができたら。お話はお接待で、これが1番ええんじゃないかなと思います。
梶川 今風の言葉で言うと、「持続可能なお接待」ですか。
渡辺 私たちは村おこし、町おこしを手がけている「愛媛地域づくり研究会」をさせていただいている。その中の一環として、四国遍路道を世界遺産に登録しようという運動を立ち上げて、もう13年になろうとしています。その運動の延長線上に、久万のヘンロ小屋があります。世界遺産が実現するかどうかは、気が遠くなるような話で、ライフワークみたいなものです。50年、100年先の話じゃないかとも思っています。ヘンロ小屋も50年、100年たって、子どもたちの代にも残っていくよう守って生きたいなと思っています。
八石 私どもも引き続いて今の活動を続けていこうと思っています。当然、私どもだけではできません。地域の方々と一緒に、協力をしていただきながらということです。来年度(2011年度)も、1カ所、2カ所したいということを、今検討しています。

   支えられてありがたい


丸尾 東洋軒では新人さんが入りますと、私たちが作ったビデオを見せるんですけど、それを見ただけではマニュアル的な接客しかできないわけです。それでもよくて、それなりのお店になります。しかし、マニュアルを超えた接客というのは、お遍路さんへのお接待の心、無償のおもてなしの心だと思います。今の若い人たちは言葉は割とできないんですが、マニュアル通りの言葉はいけるんです。それを超えた言葉をお客様におかけするというのは、なかなかできないんです。その代わりに、その人から出る優しい雰囲気とか、優しい笑顔というのは、お遍路さんへのおもてなしの心に通じると思いますので、私はドンドン引っ込んで、若い人たちに表に出てもらおうと思っています。
歌 渡辺さんがヘンロ小屋ブームとおっしゃってましたけど、確かに10年前は全くなかったんですよね。ここ数年で四国中に結構できてますよね。国交省もつくってますし。私のやらしてもらったプロジェクトが引き金になったかどうかはわかりませんが、四国中に880くらいできたらいいなと、私は思っています。個人でドンドン、ドンドンつくって、四国に来たら何かよくわからんけど、小屋みたなものがいっぱいあるというのは、すごいことなんですよ。2、3キロごとにあったら、目印になって、町おこしに十分なるんです。形なんかどうでもいいんです。スペースだけでもいいんです、屋根がちょこっとあれば。それであったら、自分の空き地でもつくれと思いますし。私は1つのきっかけになったらありがたいと思いますし、みなさんがドンドンつくることを願っております。それで四国に優しい空間、おもてなしの心が広がっていけがいいなあと思います。
 小屋ができて、お遍路さんに感謝していただいて、またお接待する方々もお遍路さんから何か、目に見えない優しい心をいただいているかもしれません。それって偉大なことだと思います。初めはあんまり思わなかったですが、10年以上やっていると、私自身が支えられていて、ありがたいと思っています。1人では何にもできないので、9割がそういう感じですね。やってみて、みなさんがかかわられると、ええ意味でちょっと変わるような気がします。是非、みなさんもちょっとでもいいので、何かにかかわっていただいたら、四国の遍路文化が日本、世界に発信できるようになると思いますので、みなさんと一緒にやっていきたいと思っています。
梶川 実は今日は支援する会の会長、辰濃和男が来させていただく予定でしたが、体調の関係で失礼しました。辰濃はお話をさせてもらう予定で、「支えられるという」というタイトルも考えていたようです。いま、みなさんが話された「支えられている」というのは大事な言葉ですね。この活動も支えられている。プロジェクト自体も支えられている。多分、会長の辰濃は自分で歩いた時の体験談を話そうと思ったんでしょう。人間は社会の中で1人では生きていけないわけで、そんなことを感じることは多いわけですが、特に四国に来るとそう思いますし、遍路をしているとそう思う、ということを話したかったのだろうと、勝手に解釈しています。
(会場との質疑応答は省略)
梶川 きょうはたくさんいい話をありがとうございました。僕はたくさん印象に残った言葉があります。例えば、丸尾さんの話に出てきた「人を幸せにする人が、1番幸せ」という言葉も深いですね。そうなりたいですねえ。四国の人は「お四国」という言い方をします。この響きは、ものすごく好きです。何か、丸い感じがしますよね。その中に、四国の心が込められているような気がします。「四国」じゃなくて「お四国」、さらに「お四国さん」とも言います。丸い、優しい感じの言葉は、四国の人たちのDNAから発したもので、そういったことが、みなさんのお接待にもつながっていっているのではないかと感じました。きょうはどうもありがとうございました。ご静聴ありがとうございました。



↓シンポジウムの発言を聞くみなさん =2011年3月20日

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