江戸時代前期の四国遍路道再現――澄禅『四国辺路日記』を通して

 

                柴谷宗叔・高野山大学密教文化研究所受託研究員(「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会役員)

              
              (「印度学佛教学研」究第62巻第1号=2013年12月)



 (一)はじめに

  四国遍路の本格的文献史料として最古ともいえる澄禅(一六一三―八〇)の『四国辺路日記』1 (一六五三)を読み解くことで、江戸時代前期の遍路の実態を明らかにした。日記に記された地名、寺社名から行程を解明、澄禅の歩いた道を現在の地図上に再現した。その道をできるだけ忠実にたどり、高野山大学の学生らと実際に徒歩検証した2 。これまでに徳島市から高知県宿毛市の三十九番延光寺まで歩いた。澄禅の日記に札所番号は記されていないが、便宜上現在の札所番号を使って論じる。


 (二)阿波


 澄禅は現在の一番霊山寺(徳島県鳴門市大麻町板東)からでなく、十七番井戸寺(徳島市国府町井戸)から打ち始め、十三番まで逆打ち、そこから十一番、十二番と行き、十八番からほぼ順打ちで巡っている。
 現在の遍路道と異なる行程を取っている。まず、問題となるのは十三番一宮(一宮神社、徳島市一宮町西丁)3 から十一番藤井寺(吉野川市鴨島町飯尾)への道である。
 ◇本来ル道エ皈テ件ノ川ヲ渡テ野坂ヲ上ル事廿余町、峠ニ至テ見ハ阿波一國ヲ一目ニ見ル所也。爰ニテ休息シテ又坂ヲ下リテ村里ノ中道ヲ經テ大道ニ出タリ、一里斗往テ日暮ケレハサンチ村ト云所ノ民屋ニ一宿ス。
 「件ノ川」とは鮎喰川である。その北側の山を越えた。徳島市入田町月ノ宮と石井町石井を結ぶ山越え、地蔵峠ではないかと思われる。西側にある童学寺越、曲突越は「野坂を上る事廿余町」の記述から離れすぎるからである。なお、地蔵越は現在北の石井町側に道はあるが、南の月ノ宮側はゴルフ場造成で道がなくなってしまっていて通行不能。峠からは南側・北側とも眺望が開け、特に北側は吉野川流域が一望できる。峠には地蔵を祀る祠がある。地元の古老の話では昭和三十年代までは一宮側から石井の高校(名西高)に通う通学路として地蔵峠越えが利用されていた。また東側にある馬場尾越も検討。こちらは石井町側の道が埋もれて分からない。ゴルフ場のクラブハウスあたりから登り、地蔵越の東側に出る道があった。地蔵峠よりよく使われていた道だという。しかし峠からは眺望がなく記載にそぐわない。現在は十五番国分寺近くの阿波史跡公園(徳島市国府町西矢野)から気延山に上がり尾根伝いに行くハイキング道で地蔵峠に行き石井に下るのが踏破可能なコースである。
 石井からは伊予街道、森山街道を通ったと考えられる。サンチに泊まった。山路の地名は、峠の麓の石井町石井にもあるが、一里の行程から吉野川市鴨島町山路が適当と考える。伊予街道を下浦(石井町浦庄下浦)から分岐する森山街道に取れば街道沿いに鴨島町山路がある。藤井寺へは伊予街道より森山街道の方が近い。『宮崎本』では「サンチ村」を神山町左右内ではないかとしている。左右内は山の反対側にある地名で行程上ありえない場所である。また、『近藤本』では「サンケ村」と翻刻している。しかし、付近にサンケに相応する地名は見当たらない。影印本を見ると「ケ」のほうが近いが「チ」とも読める。従ってサンチと読み吉野川市鴨島町山路(サンヂ)に比定するのが妥当と判断した 。4
 十二番焼山寺(神山町下分地中)から十八番恩山寺(小松島市田野)へは、一宮(徳島市一宮町西丁)往復を避けたとの記述があることから、鮎喰川沿いに一宮付近に下ったのではなく、神山町鬼籠野から佐那河内村経由の道を辿ったものと思われる。鬼籠野から国道四三八号旧道を二キロほど行ってトンネルの手前に南の神山町鬼籠野小原へ分岐する道がある。一キロほどで佐那河内村との境、府能峠(標高二九〇メートル)に出る。薬師を祀る祠がある。ここから佐那河内村中心部へは谷底へ下る感じで降りていく。根郷越、横峰峠などもあるが「法印のたお」と呼ばれ主街道だった府能峠が距離も短く標高も低く一番可能性が高い5 。佐那河内村下高樋から県道一八号、三三号、一三六号沿いに小松島市田野へ出る。勝浦川(現在の野上橋、徳島市多家良町―小松島市田浦)も歩き渡ったか。
 二十二番平等寺(阿南市新野秋山)から二十三番薬王寺(美波町奥河内寺前)への道は、澄禅の記述では海辺に出ているので現在の国道五五号線沿いの遍路道でなく由岐(美波町の旧由岐町)経由のルートをとったと考えられる。阿南市福井町から県道二五号と離合しながら日和佐に至る旧土佐街道。現在でも海辺と山越えが繰り返される難路である。
 薬王寺から高知県室戸岬へ向かう。澄禅は「右の道」と記している。薬王寺の山門を出て右であれば国道五五号沿いの土佐街道かと思われる。しかし、泊まった場所と距離の関係から見ていくと、進行方向(室戸)に向かって右、つまり日和佐川に沿っていくもうひとつの土佐街道、美波町西河内経由の道とみられる。泊まったのも西河内の集落であろう。両道の合流点である同町山河内には徳島藩の駅路寺6 である打越寺(現存、美波町山河内)があったのだが、その記述がないことからも、手前で宿泊したことがうかがえるからである。山河内からは海に掛るとの記述があることから、国道沿いの辺川経由でなく、海岸の牟岐町水落へ出る「四国のみち」ルートをたどった可能性が強い。
 浅河(海陽町浅川)の地蔵寺に泊まった。地蔵寺は稲の観音堂(廃寺、海陽町浅川稲)に合併された 。現在、観音堂は津波避難所に改造されているが、敷地内に地蔵を祀る祠がある
 海部(海陽町奥浦)から廉喰(海陽町宍喰)へは「浦伝い」との記述があることから、国道五五号や西の馬路越でなく、同町鞆浦からの「四国のみち」ルートの可能性が強い。


 (四)土佐


 神浦(高知県東洋町甲浦)の千光寺に泊まった。甲浦の集落に入って間もなく千光寺谷という場所があり、小高い丘の上に寺の址と見える広場と地蔵の祠がある。東寺の末という。東寺とは京都の教王護国寺のことではなく、室戸の二十四番最御崎寺を指すと思われる。
 野根ノ大師堂(明徳寺、東洋町野根)の手前で、「大河増水して幡多(幡多郡)の辺路衆らと急ぎ渡る」との記述がある。雨で増水したのであるが、明徳寺の手前であれば相間川ということになるが、大河とはいいがたい川である。明徳寺の先には大河と言うにふさわしい野根川がある 。川の先の辺路屋で泊まったとすれば、野根川南岸にある庚申堂(地蔵堂=同町野根) が該当するかもしれないが、住持するような堂ではない。元々野根川南岸に野根の大師堂があり、現在の明徳寺の位置に移転したと考えるのが妥当か。
 佛崎で札を納めた。現在は当該の番外札所はないが、東洋町から室戸市佐喜浜町に入ってすぐの水尻谷あたりに佛崎と思われる場所を見つけた。海に突き出た岩が仏像のように見え、石仏も祀られている。石仏に年号を見つけることはできなかった。仏海上人(?―一七六九)作との説もあるが8 、澄禅の時代にはなかったこととなる。
 ◇此難所ヲ三里斗往テ佛崎トテ奇巌妙石ヲ積重タル所在リ、爰ニテ札ヲ納、各聚砂為佛塔ノ手向ヲナシ讀經念佛シテ巡リ、夫より十余町往テ貧キ漁父ノ家在リ。此道六七里ノ間ニハ米穀ノ類カツテ無シ、兼テ一鉢ノ用意無テハ難叶所也。猶海辺ヲ過キ行、其よりハ道筋ヲ見分ル様ナル砂也。彼是六里斗往テ漁翁ニ請テ一宿ス。
 飛び石跳ね石の難所から三里、十余町で室戸市佐喜浜町入木、六里で泊まった民家のある室戸市室戸岬町椎名、そこから三里で室戸岬の記述から距離的に適合する。
 高知城下の蓮池町(高知市はりまや町)から五台山(三十一番竹林寺)へは舟で行っている。江ノ口川を行ったと思われ、現在の山田橋あたりに船着場があった。五台山側は現在の文殊通のあたりに船着場があった 。9
 三十四番種間寺(高知市春野町秋山)から三十五番清滝寺(土佐市高岡町清滝)への途中に仁淀川がある。「新居戸ノ渡」と記した仁淀の渡しは現在の仁淀川大橋の少し上流、高知市春野町弘岡上と土佐市高岡町丙を結んでいた 。10渡し跡の東岸には石仏がある 。荷物を預けた宿のあった仁居戸の地名に該当する場所は付近になく、場所的には土佐市高岡町が該当する。真念『四國邊路道指南』(一六八七)にも「荷物を高おか町にをき」とある 。11
 三十五番清滝寺から三十六番青龍寺(土佐市宇佐町竜)へは、現在は塚地峠を越えるが、澄禅は仁淀川沿いに下り新村(土佐市新居)に泊まっている。井ノ尻(同市宇佐町井尻)から青龍寺へは海べりでなく山越えの道(竜坂)を行っている。また、横浪三里は舟で行っている 。
 久礼(中土佐町久礼)では、常賢寺13 に泊まった。イヨキ土井村(黒潮町伊与喜)では随生寺(随正寺)14 に泊まった。いずれも廃寺で現存しておらず址に石碑が立っている。真崎(四万十市間崎)の見善寺(廃寺) 15に泊まった。址に薬師堂がある。
 三十八番金剛福寺のある足摺岬に向かう途中、津倉淵(四万十市津蔵渕)と一ノ瀬(土佐清水市市野瀬)の間にある伊豆田坂は現在新伊豆田トンネルで抜けている。旧伊豆田トンネルは埋められ通行不能。旧峠を越える道は荒れてはいるが、発見できた。最近になって遍路道の標識も立てられた。
 足摺岬から三十九番延光寺(宿毛市平田町中山)に向かうのに、現在も足摺から市野瀬打戻り三原村経由で行く道(五〇・八キロ)と、足摺から月山(大月町月山)経由で宿毛に打ち抜けて行く道(七二・五キロ)とがあり、距離の短い打戻りコースを取る人が多く途中宿に荷物を預けるが、同じ道は面白くないと敢えて月山経由コースを取る人もいる。澄禅も元へ帰るのは無益と月山打ち抜けコースを取った。月山道は海辺を通り難所多しとし、打戻りする人は一ノ瀬に荷を置いて行くと記している。現在、市野瀬には番外札所真念庵 があり、江戸時代には遍路宿をしていたのだが、真念(?―一六九一)は澄禅より後の人であることから、澄禅の時代既に市野瀬に荷を置く風習があったとの記述は興味深い。
 川口(土佐清水市下川口)の浄土宗正善寺(廃寺)に泊まった。現在同地に真言宗醍醐派大師寺がある。廃仏毀釈で部落に寺がなくなっていたところへ昭和十八年に真言宗泉涌寺末頭山寺として創建、正善寺の仏像を移す 。のち醍醐派に転派し大師寺に改称16 。澄禅当時に真言寺があればそこに泊まっていたはずだが、当時は浄土宗の寺しかなかった。澄禅日記では土佐清水から足摺へは往路は東海岸、復路は西海岸経由となっている。同じ道を避けたといえる。
 月山(月山神社)から、西伯(大月町西泊)経由の道を取った。同町赤泊から姫ノ井に抜けるのが現在の遍路道であるが、澄禅はなぜか遠回りとなる西泊を経由している。西泊から姫ノ井に抜ける道もあるが、樫西海岸から周防形、不動滝を経由して清王に至る道である可能性がある。

 コヅクシ(宿毛市小筑紫)からミクレ坂(三倉坂=御鞍坂)を越えて宿毛(宿毛市宿毛)に至った。三倉坂は宿毛市大浦から同市坂ノ下に至る山越えの道 17。現在は荒れて通行困難である。現在の遍路道は海岸沿いを歩く。
 宿毛では浄土寺に泊まった。澄禅は「真言・禅・浄土・一向宗四ケ寺すべて浄土寺という」と記しているが、現在は浄土宗の浄土寺のみ現存。おそらく各宗ごとに同名の四か寺があったのではなく一寺で四宗を兼ねていたと思われる。浄土寺は現在は市街地北西(宿毛市与市明)にあるが、当時は市街地中心部(同市中央)にあったらしい。松田川の南(同市坂ノ下)という説もある 。18


(四)まとめ


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1 『辺路日記』の「辺」は正しくは、しんにゅうに鳥の「桓」。「辺」の異体字。本論では引用文は「辺路」と表記、地の文は一般的な「遍路」を使用した。底本に塩竃神社(宮城県塩釜市)所蔵の正徳四年(一七一四)写本の影印本(高野山大学図書館所蔵)を使い、宮崎忍勝『澄禅四国遍路日記』(大東出版社、一九七七。以下『宮崎本』)、近藤喜博『四国遍路研究』(三弥井書店、一九八二。以下『近藤本』)、伊予史談会『四国遍路記集』増訂三版(愛媛県教科図書、一九九七。以下『史談会本』)を参照し校訂した。
2毎年希望者を募って澄禅の道を歩く徒歩遍路を実施。第一回は平成二十三年八月一―七日、徳島から薬王寺。第二回は二十四年三月二―八日、薬王寺から高知。第三回は二十五年二月十五―二十六日、高知から延光寺。
3 明治初年の神仏分離で北向かいの大日寺に札所が移った。
4 小松勝記『四国邊路日記并四国順拝大繒圖』(岩本寺、二〇一〇、以下『小松本』)も同様の見解であるが、拙論「澄禅の足跡たどる 江戸前期の遍路道再現」◆福悗悗鵑蹇抻亜纂傾罅0僕重管堝飴此二〇〇九年十月)で発表したほうが早い。
5『神山町史上巻』(二〇〇五)六二七頁。『ふるさと佐那河内』(佐那河内村、一九九二)三三頁。『鬼籠野村誌』(一九九五)四五一頁。
6徳島藩は、慶長三年(一五九八)に、駅路寺の制度を定め、八か寺を指定する。長谷寺(鳴門市撫養町木津)、瑞運寺(現在の六番安楽寺、上板町引野)、福生寺(吉野川市山川町川田)、長善寺(東みよし町中庄)、青色寺(三好市池田町佐野初作)、梅谷寺(阿南市桑野町鳥居前)、打越寺(美波町山河内)、円頓寺(廃寺、海陽町宍喰浦、同所の大日寺に合併)の八か寺である。遍路などの旅人に宿を貸す寺院を指定し、藩が補助するというものだ。 『海南町史上巻』四八一―四八二頁。
 7 『海南町史上巻』四八一―四八二頁。
8『佐喜浜郷土史』(佐喜浜郷土史編集委員会、一九七七)二四九―二五一頁。
9大野康雄『五台山誌』(土佐史談会、一九八七復刻)一一五頁。
10 清滝寺伊東聖隆師からの聞き取り。 11 『史談会本』九〇頁。
12土佐市宇佐町から須崎市浦ノ内に至る浦ノ内湾。北の湾岸を歩く遍路道と湾内を舟で行く方法がある。
13 『中土佐町史』(一九八六)によれば、佐竹氏の菩提寺であったが、明治四年に廃寺。七〇、九四五―九四七頁。
14大塚政重『佐賀町郷土史』(佐賀町教育委員会、一九六五)五九頁。址に「瑞祥寺跡」と記された石碑が立つ。
15『中村市誌続編』(一九八四)六八六頁。
16『土佐清水市史下巻』(一九八〇)六六二頁。
17山本弘光「月山道について(上)」(『西南四国歴史文化論叢よど第十号』四一―五三頁、西南四国歴史文化研究会、二〇〇九)。
18『宿毛市史』(一九七七)七九一―七九二頁。『小松本』八四頁。
19 『高知県歴史の道調査報告書第二集ヘンロ道』(高知県教育委員会、二〇一〇)二三〇頁。拙論「澄禅の足跡たどる 江戸前期の遍路道再現」ァ福悗悗鵑蹇抻旭譟珊罅F鵝三譟伺一月)で発表した。 ※市町村史誌については、当該自治体・教育委員会・編集委員会等の編になるものは著者名・発行所名を省略した。
 番外札所の詳細については拙著『公認先達が綴った遍路と巡礼の実践学』(高野山出版社、二〇〇七)一七〇―二四〇頁参照。


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