澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(1)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<十三〜十七番、戦国兵火で荒廃  地蔵峠越え十一番藤井寺へ>



 四国遍路の記録として、現存確実なものとしては最古と考えられる澄禅(1613〜80)の足跡をたどる。江戸時代前期の遍路道を再現する試みである。これまで、へんろみち保存協力会(宮崎建樹代表)や、喜代吉榮徳、小松勝記、武田和昭各氏らの遍路研究家、愛媛県、徳島県教委などの力で古い四国遍路道の調査が試みられてはいるが、多くは現存する江戸時代以降の標石を元に昭和期まで使われていた道を再現したものである。標石は真念(?〜1691)が貞享年間(1684〜88)以後に建立したものが最古であり、真念の『四国邊路道指南』(1687)に記されたルートにほぼ合致する。しかし、それ以前の道は残念ながらわかっていない。従って真念に先立つ澄禅の『四国辺路日記(「辺」は、正しくは「鳥に、しんにゅう」)』(承応2年=1653)当時の遍路道の詳細をたどったてみた。澄禅の日記を詳細に読み込み、そこに記載されている内容を現地調査によって確認した結果を報告する。
 澄禅は、承応2年(1653)7月18日、高野山(和歌山県高野町高野山)を出発、和歌山城下を経て、同24日阿州渭津(徳島県徳島市)に着く。持明院(廃寺、徳島市眉山町大滝山)に泊まる。持明院は『阿波名所図会』にも登場する有名寺院だが、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈で廃寺となった。現在は跡地に常慶院滝薬師がある。また滝薬師の向かいには澄禅が記した持明院と並ぶ真言の大寺である願成寺が現存する。 澄禅は、25日から遍路を始めるが、持明院の伝授を受け、現在の一番霊山寺からでなく、井土寺(十七番井戸寺、徳島市国府町井戸)から打ち始めている。現在の札番からいうと十七番から十三番まで逆打ち、十一番、十二番と打って、十八番に飛び、十九番以降順打ちしている。一番から十番までは讃岐(香川県)の八十八番大窪寺を打ち終えて最後に回っている。この順次によって、現在とは異なる遍路道の再現をしたい。
 持明院を発ち西約4キロの井戸寺まで、伊予街道(国道192号とほぼ並行)を行ったと思われる。徳島城下から井戸寺への遍路道は他のルートもあるが、澄禅は「元来た大道」と書いているので伊予街道を行ったと推測されるのである。鮎喰川に当時、橋は無かったので現在の上鮎喰橋の少し上流を歩き渡ったと思われる。井戸寺は当時、「小さな草堂も朽ちている」という状態だった。
 ここから一ノ宮(一宮神社、現在の十三番札所大日寺は道を挟んで北側、徳島市一宮町西丁)までは、ほぼ現在の遍路道を逆打ちしている。観音寺(十六番、同市国府町観音寺)、国分寺(十五番、同市国府町矢野)、常楽寺(十四番、同市国府町延命)はいずれも荒廃している様子が記されている。常楽寺から一ノ宮へは、2町ほどの川(鮎喰川)を歩いて渡る。現在の一宮橋の少し上流あたりと思われる。雨で増水すると渡れなくなり舟で渡るとある。一ノ宮に至ってやっと「殿閣結講也」という語句になっており境内が整っていることがわかる。
 なぜこのように荒れていたのだろうか。その理由として考えられるのが戦国時代の罹災である。長宗我部元親(1538〜99)による天正(1573〜92)の兵火で焼失したためで、澄禅が最初に回った十七〜十三番は羽柴秀長(1540〜99)との一宮城の攻防で主戦場になったあたりで被害甚大だったであろう。寺により復興の度合いが異なるが、寺領を持たない寺は苦しかったであろうことが推測される。
 問題はここからである。一ノ宮から藤井寺(十一番、吉野川市鴨島町飯尾)への道は現在の遍路道コースからは離れている。澄禅はいかなる道を行ったのだろうか。標石等が残っていないので物証はない。あくまで澄禅の日記から推測するしかない。
 「もと来た道を帰り件の川(鮎喰川)を渡った」との記述から鮎喰川北岸に至り、「阿波一国を一目に見る」峠を越えたという。この峠は一体どこなのか。まず考えられるのは、徳島市入田町月ノ宮と石井町石井を結ぶ山越え。地蔵峠ではないかと思われる。それより西の童学寺越、曲突越は「野坂を上る事廿余町」の記述から離れすぎるからである。なお、地蔵越は現在北の石井町側に道はあるが、南の月ノ宮側はゴルフ場造成で道がなくなってしまっていて通行不能。峠からは南側・北側とも眺望が開け、特に北側は吉野川流域が一望できる。峠には地蔵を祀る洞がある。澄禅の記述にぴったりの峠である。なお地元の古老に聞けば、昭和30年代までは一宮側から石井の高校(名西高)に通う通学路として地蔵峠越えが利用されていたという。
 また東1キロ弱に馬場尾越があるが、現状は眺望は全く利かず澄禅の記述とは異なるので地蔵越の方が可能性は高い。こちらは尾根道沿いには行けるが峠越え道は石井側も入田側も共に埋もれて分からない。結局現在徒歩可能なのは十五番国分寺近くの阿波史跡公園から上がり尾根伝いに行くハイキング道のみである。
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 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
e-mail:henrogoya@arrow.ocn.ne.jp







↑持明院址に建つ常慶院滝薬師




↑地蔵峠にある地蔵を祀った




↑地蔵峠から開ける展望(南側の入田方面を望む)


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