澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(11)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<宿毛4ヶ寺すべて浄土寺 野井坂越え宇和島へ>



 9月9日、月山を出て西伯(大月町西泊)、コヅクシ(宿毛市小筑紫町小筑紫)に出る。七日島の記載があるが現在は陸続き。イヨ野(同市小筑紫町伊与野)の真言宗瀧厳寺(現存)に泊まった。現在は大師寺(土佐清水市下川口)が管理する醍醐派の寺だ。月山より16キロ。


   関所を誤記


 10日、ミクレ坂(三倉坂=御鞍坂、宿毛市小筑紫町小浦から同市坂ノ下に至る)を越え宿毛(宿毛市中心部)に。太守一門山内左衛門佐(山内可氏)7000石の城下、城無く屋敷構え。真言・禅・浄土・一向宗四ケ寺すべて浄土寺というと記す。浄土寺(浄土宗の浄土寺は現存、同市宿毛)に荷物を置き寺山(三十九番延光寺、同市平田町中山)へ往復8キロ。
 寺山の近所に南光院という妻帯山伏がいる(現在延光寺から500メートル北に奥院の南光院がある)。宿毛の浄土寺に泊まる。足摺山より寺山まで52キロ。御月山(月山神社、大月町月山)を掛ければ64キロ。
 11日、寺から4キロで小山という所に関所(宿毛市大深浦に松尾坂番所跡がある)。宿毛市には小山という地名はないが、伊予側の関所がある所が小山であることから誤記したものと思われる。
 伊与国松尾坂の下り付に関所(愛媛県愛南町小山)、坂の下より西10万石分伊達遠江守(伊達秀宗)の領分で宇和島藩が番所を置く。坂越えヒロミ(愛南町広見)へ。


   篠山へは行かず


 御篠山(篠山神社、愛南町正木篠山)へはここに荷物を置いて8キロ行く。現在、篠山山上には神社しかないが、明治初年の廃仏毀釈前は中腹に観世音寺があった。
 澄禅の行程からいって、篠山打ち戻りは時間的に不可能である。従って、澄禅は篠山へは行かず、伝聞で篠山に行った場合はこうだということを書いたに過ぎないと考えられる。
 広見より4キロほど行った城辺(愛南町の旧城辺町中心部)の民家に泊まった。 城辺の宿を出て観自在寺(四十番、愛南町御荘平城)へ。寺山(三十九番延光寺)より28キロ。
 観自在寺から八キロほど行って柏(愛南町柏)へ。上下8キロの大きな坂(柏坂)越えハタジ(宇和島市津島町上畑地または下畑地)へ。民家に泊まる。
 13日は雨で宿に逗留。


   辺路家の存在記す


 14日、宿を出て、津島(同市津島町岩松)へ。野井坂(同市津島町岩渕野井)を越え宇和島(同市中心部)に。澄禅は国道56号沿いの松尾峠越えでなく、県道46号沿いの野井坂を越えている。真念(?―1691)以後盛んになる満願寺(同市津島町岩渕)経由の遍路道であるが、日記には満願寺の記載はない。(宇和島城下)追手門外に大師堂(馬目木大師、同市元結掛)という辺路家があったと記す。大師堂に遍路が泊まっていたことを示す記載である。
 また、現在の馬目木大師(同市元結掛)のところに対岸の九島の鯨大師(同市九島蛤)にあった願成寺が寛永7年(1630)に移築された。明治初年に龍光院(同市天神町)に吸収合併され、堂だけが現地にあるが、澄禅の時代には寺は存在していたはずで辺路家をやっていたのであろう。
 

                 ◇
 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
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      ↑宿毛市小筑紫町伊与野に現存する澄禅が泊まったと記載した瀧厳寺




↑宿毛市宿毛にある浄土宗の浄土寺。澄禅はここに荷物を置き延光寺を往復した




↑宿毛市大深浦にある松尾坂番所跡。土佐側の関所であった




↑宇和島市街地の南口にあたるところにある馬目木大師堂