澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(12)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<宇和島に遍路宿の原型 名産鰯を歌で紹介>



 宇和島(宇和島市中心部)は伊達遠江守(伊達秀宗)10万石の城下である。城の北方に鬼カ城という大山があると記す。現状は市域の南西に鬼が城山(標高1151メートル、同市丸穂)がある。西の入江に舟津(宇和島港)。箕を広げたような真中に周囲4キロほどの城(宇和島城、同市丸之内)がある。
 澄禅の日記には宇和島藩の祈願所に地蔵院(地蔵院延命寺=廃寺、同市大超寺奥の愛宕山麓)、龍光院(現存、別格六番、同市天神町)の両寺と記す。


   地蔵院の場所確定


 地蔵院は現存しないが、これについて探った。西予市明浜町俵津に地蔵院という寺が現存するが、城下にあった地蔵院とは位置的に別の寺。『宇和旧記』には祈願所の地蔵院延命寺が城下の愛宕山麓にあると記されている。現在、愛宕山麓に大超寺(宇和島市大超寺奥、浄土宗)があるが別の寺。宇和島藩祈願所の由緒を残す寺としては神宮寺(同市笹町、天台宗)があるが、これも別と思われる。城下の古絵図に記された地蔵院の位置からして大超寺と一宮(宇和津彦神社=同市宇和津町)の間にあったと推定される。現在は住宅地になっており、寺の跡を示すものは何もなかったが場所はほぼ確定できた。
 9月14日、字和島本町3丁目(同市中央町)の今西伝介という人の所に泊まる。60余歳の男で、辺路修行者とさえ言えば宿を貸すとある。若いころは奉公人で今は金持ちだと記す。この記載から遍路宿の原型を見ることができよう。


   八幡宮に詣でる


 15日、宇和島本町の宿を出て北西へ行き、八幡宮(八幡神社、同市伊吹町)に詣で、さらに北西に行って坂を越え稲荷ノ社(四十一番龍光寺、同市三間町戸雁)へ至るとある。現在八幡神社は宇和島市街地の北東にあり、龍光寺のある三間町はさらに北東の方角になる。鬼が城の記述といい、澄禅が記した方角が現状とは異なる。観自在寺から稲荷まで40キロ。
 澄禅の日記には稲荷ノ社は田中に在る小さい社と記している。現在の社は丘の中腹にあり、稲荷社をはさんで左右に本堂と大師堂がある。神仏習合を無理やり分けた明治初年の神仏分離を引きずった境内である。稲荷社は元禄元年(1688)に現在地に遷座した。従って澄禅当時は丘の中腹でなく田中にあったということがわかる。佛木寺へ3キロ弱。
 佛木寺(四十二番、同市三間町側)。澄禅が訪れた日は鎮守権現の祭礼日でにぎわっていた。大きな坂(歯長峠)を越え、皆田(西予市宇和町皆田)の慶宝寺(宝満山慶宝院=廃寺)という真言寺に泊まった。。
 16日、寺を発って川(肱川)を渡り北西の谷の奥の明石寺(四十三番、同市宇和町明石)へ。仏木寺より12キロ。
 澄禅は宇和島のくだりで、明石観音と名産の鰯のことに触れている。現在の宇和島名産はホタルジャコであるが、鰯を歌とともに紹介しているのが興味深い。


   庄屋宅に泊まる


 卯ノ町(同市宇和町卯之町)を過ぎ、タヾ(同市宇和町東多田)に至る。ここまでが伊達(伊達秀宗)の領分で関所があった。戸坂(同市宇和町久保鳥坂)から西は加藤出羽守(加藤泰興)領分。ここの庄屋清右衛門宅で泊まった。清右衛門は信心深く、辺路も数度しているという。高野山(和歌山県高野町高野山)の小田原湯谷ノ谷、證菩提院の旦那であると記す。高野山の小田原から金剛三昧院へ入る道のあたりが湯屋谷で、かつて證菩提院があった。證菩提院は現在、親王院に合併されている。当時、四国の庄屋が高野山との関係をもっていたとの記述で、高野山信仰の広がりを示す左証であるといえる。
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 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
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      ↑宇和島藩祈願所の地蔵院があったと思われる場所。現在は住宅地となっており、寺の痕跡は見つけられなかった




↑澄禅が参拝したと記す宇和島市伊吹町の八幡神社


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