澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(15)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<異なる衛門三郎伝説 屋敷跡の文殊院、記載なし>



 9月25日、石手寺(五十一番、松山市石手)へ。三重塔、熊野権現社、御影堂、鐘楼、仁王門などのある大伽藍であった。国宝の仁王門は文保3年(1318)建立なので澄禅の見たのが現在に残っていることになる。
 日記には、安養寺から石手寺に改称した由来として衛門三郎伝説を記す。内容は現在流布されている伝説とほぼ同じであるが、いくつか異なる点がある。まず出会いの場所であるが澄禅の日記では八坂寺(四十七番、同市浄瑠璃町八坂)となっている。


   道後温泉で湯治


 現在は衛門三郎の屋敷で托鉢したとされ、その跡という所に文殊院徳盛寺(別格九番、同市恵原町)があるが、澄禅の日記には文殊院の記載はない。番外札所の縁起とするため後世に作り変えられた可能性がある。8人の子を埋葬したとされる八墓(八つ塚、同市恵原町)は日記の文中に出てくる。
 1キロ余り行って温泉(道後温泉)。近くに河野氏の古城があったが竹林となっていると記す。現在は道後公園として整備されている湯築城跡である。1キロ余で松山城下(同市中心部)。三木寺(御幸寺、同市御幸)に泊まった。時代は下るが、種田山頭火(1882―1940)が終焉を迎えた一草庵の隣接地である。26日は三木寺に逗留し道後温泉で湯治。
 27日、柳堤を行き大山寺(五十二番太山寺、同市太山寺町)へ。現在は御幸寺から太山寺への途中には、柳堤は失われているが大川沿いを行く遍路道がある。
 太山寺には25町(約2.7キロ)下から町石があると記す。大門から仁王門まで6百メートル余、仁王門より山(本堂のある場所)までも6百メートル余とある。


   宇和島以来の海辺


 堂に「予本国犬童幡磨守元和3年(1617)6月15日僧正勢辰謝徳ノ為トテ辺路修行ス」という板札があると記している。肥後国(熊本県)願成寺の僧正勢辰が肥後国人吉藩の犬童播磨守の謝徳のために遍路修行をした納札の記録である。実物は現存しないが、隣の円明寺には現存最古の慶安3年(1650)の納札がある。これを30年以上遡る納札の記録であり興味深い。
 2キロほどで円明寺(五十三番、同市和気町)に着く。北へ行って塩焼浜(塩田のある浜。和気浜塩田を指すか)に出る。宇和島から海を離れて初めて海辺に出たとある。宇和島からここまでは現在も山の中を通る遍路道である。
 堀江(同市堀江町)を経て間ノ坂(粟井坂)に。伊予国を二分した道前・道後の間の坂という意味だ。明治に海岸べりの旧国道が開通するまでは難所とされた坂越え。現在は国道196号の粟井坂トンネルで抜ける。合併前の旧松山市側が道後、旧北条市側が道前。現在は旧北条市側に下った所に大師堂(同市小川)があるが日記に記載はない。


   20キロの間宿なし


 柳原(同市柳原)、カザハエ(風早郷=松山市の旧北条市一帯の旧称だが、この場合は旧北条中央部を指すか)経由。この二20ロほどの間は遍路に宿を貸してくれないとある。山坂(鴻ノ坂)を越え浅波(浅海=松山市の旧北条市浅海地区)の民家に泊まる。
 28日、大坂二つ越すと記す。真念『四国邊路道指南』には窓坂、ひろいあげ坂の記載があるのでこの二つの坂と思われる。窓坂は松山市の旧北条市と今治市の旧菊間町の境に現存。ひろいあげ坂のあったあたり(今治市菊間町田之尻と同町長坂の境)は現在松山シーサイドカントリークラブになっており当時の坂の跡はわからない。菊間(今治市菊間町浜)、新町(同市大西町新町)を経て縣(同市阿方)の円明寺(五十四番延命寺)に至る。
 
 
                 ◇
 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
e-mail:henrogoya@arrow.ocn.ne.jp







      石手寺仁王門は澄禅もくぐったはず↑




河野氏の古城があったとされる湯築城跡↑




↑澄禅が2泊し三木寺と記した御幸寺




↑道前、道後の境にある粟井坂