澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(16)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<本来の札所 大山祇神社 別宮の納札 略義と記す>



 9月28日、縣(今治市阿方)の円明寺(五十四番延命寺)から4キロほどで三嶋ノ宮(別宮大山祇神社、現在の五十五番札所南光坊の北に隣接、同市別宮町)に至る
 別宮というのは、海を7里北へ行ったところに大三島(同市大三島町)があり、そこに大明神の本社がある(大山祇神社、同市大三島町宮浦)。別宮は仮に御座する場所であり、本式の遍路は大三島に渡る。別宮に札を納めるのは略義であると記している。現在は南光坊への納経のみで、大山祇神社に参拝する人はほとんどいないが、澄禅は本来の札所は大三島にあると言っているのである。2、300メートル行って今治(同市中心部)の神供寺(現存、同市本町)に泊まる。


   八幡宮から眺望


 29日、神供寺を発って田中の細道を四キロ直進して泰山寺(五十六番、同市小泉)へ。降り始めた雨がやまないので泰山寺に泊まった。
 10月1日、泰山寺を出て河(蒼社川)を渡って南の山に登り、八幡宮(石清水八幡宮、同市玉川町八幡、現在の五十七番札所栄福寺は山の中腹)に参詣する。山から今治藩3万石が眼下に見え、北の海の向こうには芸州(安芸=広島県)が望めた。現在もしまなみ海道が望める景勝の地である。
 山を下りてさらに南へ行き、野中の細道を通って佐礼山(五十八番仙遊寺、同市玉川町別所甲)に登る。見かけは小山だが屏風を立てた様な山で小石まじりの赤土の山である。足の踏み所も無く中々上りづらいとある。
 坂を下り、途中の歓喜寺(現存、同市町谷)で道筋を教えてもらい、国分寺(五十九番、同市国分甲)に至る。寺楼、庭、前栽は国分寺という名にふさわしい立派なものだとある。


   立派な国分寺


 大門の端から南東に流れる小川(大川)があり、川沿いに4キロほど行って医王山という坂(医王坂、西条市楠の県道159号沿いの坂)を過ぎ楠(同市楠)という里を経て、中村(同市三芳中村)という里に泊まった。
 2日、ニウ川(壬生川=境川)を渡って南へ行き、田中の畔を伝って一ノ宮(一宮神社、現在の六十二番宝寿寺から予讃線の線路を隔てた北側、同市小松町新屋敷一本松)に。
 一ノ宮は街道から100メートルほど入った田の中に建っている。地形が低く洪水の時に困るので、南の山へ度々遷座するが元の地に戻したという。川(中山川)を渡って一本松(同市小松町新屋敷一本松)という村を過ぎて、新屋敷(同市小松町新屋敷甲)という所に社僧の天養山保寿寺(六十二番宝寿寺)があり、ここに泊まった。


   坂の記述は一致


 3日、保寿寺に荷を置いて1キロほどで香薗寺(六十一番香園寺、同市小松町南川甲)へ。元の道に帰り小松(同市小松町)という所を経て横峯(六十番横峰寺、同市小松町石鎚)にかかる。
 横峯寺は、麓の小松から4キロ大坂を上る。それから三つの小坂を上下し、又大坂を上って少し平らな所に仁王門があったと記す。小松の街中から横峰への道をたどっていることから、現在の石鎚山ハイウェイオアシスの裏から上がる遍路道を行ったと思われる。現在は湯浪道あるいは香園寺奥の院滝道が主流であるが、当時は小松から直に上がる道が主流であったか。次に記載されているように大坂そして三つの小坂上下の記述に一致する道である。ただ、仁王門の位置は現在ここにはなく、寺域の逆側から入る湯浪道から登りきったところにあるので、確認は取れていない。
 
 
                 ◇
 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
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      澄禅が今治で宿泊した神供寺↑




国分寺への道を聞くのに立ち寄った歓喜寺 ↑




旧来の札所であった小松の一宮神社↑


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