澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(17)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<横峰寺で石鎚山の納札 山開き旧歴6月1日限り>



 10月3日、横峯寺(六十番横峰寺、西条市小松町石鎚)から南西の峰を500メートルほど登ったところにある鉄の鳥居(星が森、同市小松町石鎚星森峠)で、石鎚山を遥拝して札を納めて読経念誦した。石鎚山は大雪が降り積って白くなっていた。一咋日、里は時雨だったが山々は皆雪だった。元の坂を下って保寿寺(六十二番宝寿寺、同市小松町新屋敷甲)に還り泊まった。上下24キロだった。
 石槌山太権現(石鎚神社本社、同市小松町石鎚山頂)までは48キロ。6月1日以外は山上10登れないので横峰に札を納めたとある。現在の石鎚山山開きは新暦7月1―10日の十日間であるが、当時は旧暦6月1日限りだったようだ。


   朝食のお接待


 4日は保寿寺に逗留。翌5日朝に近くの甚右衛門という人に家で朝食の接待を受ける。この記述から当時既にお接待の風習があったことが読み取れる。そこから1キロほどでヒミ(同市氷見)の町を過ぎて吉祥寺(六十三番、同市氷見甲)へ。
 4キロほど行って前神寺(六十四番、同市州之内甲)で札を納めた。当時は石鎚山が札所であって、現在の札所である前神寺は里坊と記している。
 澄禅は石鎚山の納札を横峰寺の遥拝所と里前神寺の両方でしている。明治の神仏分離までは、山上に本寺があり神仏習合の霊地であった。明治初年の神仏分離で石鎚神社だけとなり前神寺は廃寺となる。前神寺は明治11年に里坊の位置に移転し再建。現在はロープウェーの山頂成就駅から少し登ったところに奥前神寺(同市小松町石鎚成就)があり、山開き期間のみ開扉される。


   加茂川を渡る


 そこから4キロほど行って西條の大町(同市大町)に至る。1キロ弱行ったところに城があった(同市明屋敷、現在の西条高校の場所)。大町よりカモ川(加茂川)を渡って大道(金毘羅街道=現在の国道11号とほぼ並行する旧街道)を行って、20キロ余りのところにある泉川という川を川下に1キロほど下って、浦ノ堂寺という真言寺(隆徳寺、新居浜市外浜町)に泊まった。
 隆徳寺は旧浦堂寺と正光寺を明治43年に合併してできた寺である。現在の寺地は旧浦堂寺があった境内という。泉川は隆徳寺門前の小川を指すと思われるが、すぐ東に国領川もある。


   宿泊断られる


 6日、寺を出て件の川を渡って、上野ノ峠(上野峠)という山道を6キロほど行って上野ノ里(四国中央市土居町上野)に出る。ここからは宇麻ノ郡(宇摩郡=現在の四国中央市)公方の領地である。野中の大道を行き、中ノ庄(同市中之庄町)という所で宿泊を断られた。そこから三島(四国中央市の旧伊予三島市中心部)という所まで行って興願寺(現存、同市三島宮川)という真言寺に泊まった。
 7日、興願寺を出て田畔を行って柏寺(善法寺=同市下柏町=か)という寺の前を経て坂にかかる。三角寺(六十五番、同市金田町三角寺甲)は与州(愛媛県)第1の大坂大難所である。3キロ余り登ってようやく着く。
 善法寺は江戸前期は現在地より南の山寄りの同市上柏町の戸川公園のあたりにあったというから、ここから三角寺の坂にかかるという表現と一致する。柏寺とは柏にある寺という意味か。
 
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 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
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      石鎚山遥拝所である星が森。鉄の鳥居の向こうに石鎚山が望める↑




浦堂寺の流れを汲む隆徳寺 ↑




澄禅が泊まった伊予三島の興願寺↑




四国中央市下柏にある善法寺。昔は山側の戸川公園のあたりにあったという↑