澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(20)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<遍路必修の地金比羅宮 神仏混淆時の堂寺記す>



 10月12日、仏母院(多度津町西白方)を発って、曼荼羅寺(七十二番、善通寺市吉原町)へ。寺に荷を置いて出釈迦山(我拝師山、善通寺市吉原町、七十三番出釈迦寺=善通寺市吉原町=から南東2キロの山上)に登る。


   出釈迦寺は山上


 まず500メートルほど野中の細道を行って坂にかかる。小さい谷合いの屏風を立てたような細く焼石のように崩れかかった上を上るので恐しい。ようやく峰に上り付いて、馬の頭のような所を18メートルほど行って小さな平らな所に昔の堂の跡がある(七十三番奥院・捨身ヶ嶽禅定、同市吉原町)。釈迦如来・文殊・弥勒の石像などがある。曼荼羅寺の奥院というべき山である。
 現在の出釈迦寺本堂は我拝師山の麓にあるが、元は現在の奥院の堂がある山上にあった。なお釈迦石像等は堂からさらに岩をよじ登った上に有る。18町(約2キロ)という距離や描写から言って澄禅は山上に参拝したとみられる。元の坂を下りて曼荼羅寺へ。
 900メートル行って甲山寺(七十四番、善通寺市弘田町)。五岳の1つと記す。 善通寺(七十五番、善通寺市善通寺町)の本堂は御影堂。札所は薬師如来(金堂)、大門の先にある。住職に御影堂を開帳してもらい、非公開の目引大師(瞬目大師)ほかの宝物を拝観した。
 ここでは五岳について、筆山(筆ノ山)・中山・火山(火上山)・我拝師視山(我拝師山)・甲宿山(香色山)と記している。現在と同様である。してみれば甲山寺のくだりでは、甲宿山と甲山を混同したかとも思われる。


   馬頭山は誤記?


 北東(実際は南東)へ4キロ行って金毘羅(金刀比羅宮、琴平町琴平山)に至る。本坊を金光院(廃寺)という。坂の上に正観音堂がありこれが本堂、奥に金毘羅大権現の社。寺家の真光院(廃寺)に泊まる。山は馬の臥した形に見えるから馬頭山というと記す。現在は象頭山という。象の頭の形に見えることから江戸時代も象頭山と呼ばれていたはずである。澄禅の誤記か。
 金刀比羅宮は四国札所ではないけれど、番外として江戸時代はよく参られた。澄禅もこれに従ったといえる。真念、寂本らの記述にもあることから、明治初年の神仏分離前は遍路必参の場所であったといえる。澄禅の記述に有る堂寺等は神仏分離でなくなった。なお神仏分離後独立した松尾寺(琴平町琴平、金刀比羅宮の麓に有る)の本尊は釈迦如来で観音ではない。
 

   入江の船賃は1銭


 13日、14日は金毘羅に逗留。15日に寺を出て善通寺に帰る。道具を取って金蔵寺(七十六番金倉寺、善通寺市金蔵寺)に至る。
 北東に4キロ行って道隆寺(七十七番、多度津町北鴨)で泊まった。当寺の旦那に横井七左衛門という人がいて、一緒に話をするが、光明真言の功能などを聞かれて真言の伝授を受けたいというので伝授した。帰宅してから手巾や斎料などを贈られた。
 16日、道隆寺を発って東北に行き、円亀(丸亀=丸亀市中心部)に至る。城下の町中を通り、川口(土器川)の入江の船賃は一銭だった。北の浜は満潮時には道無く野へ回って行く。
 8キロで道場寺(七十八番郷照寺、宇多津町西町東)へ。所はウタス(宇多津)という。

                 ◇
 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
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      ↑現在の出釈迦寺遥拝所から見た我拝師山




↑我拝師山の断崖絶壁に祀られた石仏




↑江戸時代の遍路の多くが参拝した金刀比羅宮


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