澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(21)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<八十蘓ノ水付近に寺、繁昌 札所と誤り辺路巡礼>



 10月16日、道場寺(七十八番郷照寺、宇多津町西町東)から、野道を行って坂瀬(坂出)という塩屋の浜を通って大道(讃岐浜街道、県道33号沿い)から右の山際に行く道を上っていく。
 野沢ノ井(八十蘓ノ水=現在の八十場の水、坂出市西庄町八十場)という泉がある。岩間を流れ行く細い谷川である。金山薬師(金山奥の院・瑠璃光寺、同市西庄町)という1キロほど東の山にある薬師石像の胸から流れる水で霊験がある。澄禅の日記には、佐留礼親王(讃留霊王=武殻王、日本武尊の息子)と悪魚の伝説を記しているが、ここでは略す。


   玉体を21日浸す


 200メートルほどで崇徳天皇(白峯宮、同市西庄町、現在の七十九番高照院天皇寺は神社をはさんで右に本坊・左に本堂大師堂等)へ。
 澄禅は、世間流布の日記には崇徳天皇とあるが大師が定めた札所は金山薬師であると書いている。七十五代崇徳天皇(1119−64)は大師より300余年後である。天皇崩御の後、子細在って玉体を八十蘓ノ水に三七日(21日)浸した。その跡だからここに宮殿を建てて神とあがめる。本堂には十一面観音を安置。ほかに7堂伽藍の数か寺が建つ。この寺が繁昌して金山薬師は衰退し、子細由緒を知らない辺路修行の者がこの寺を札所と思い巡礼したのが始まり。これは誤りである。当寺は金花山悉地成就寺摩尼珠院といい、寺は退転して俗家の屋敷となっているとある。


   5岳の中央鷺峰


 七十九番奥院・摩尼珠院は天皇寺の南1.5キロ、同市西庄町城山の城山山上近くの滝の脇にあり本尊不動明王。金山薬師は天皇寺の西側の金山にあり、別の寺である。 東へ行って綾川(現存)を渡って坂を越えて、国分寺(八十番、高松市国分寺町国分)へ行き泊まった。
 17日、国分寺を発って、屏風を立てたような山坂の九折(つづらおれ、俗に遍路ころがしと言われる急坂)を600メートルほど登る。上に由緒ある渓水がある。水上に地蔵堂。松林を行って、白峯寺(八十一番、坂出市青海町)へ5キロ。
   5岳の随一。鷲峯(八十二番奥院・鷲峰寺、高松市国分寺町柏原)が府中(旧国分寺町から国府のあった坂出市府中町につながる周辺が府中と言い習わされている)にありこれが中央である。青峯山根香寺(八十二番、高松市中山町)、赤峯吉水寺(廃寺、同市国分寺町国分国分台)、黒峯馬頭院(廃寺、坂出市青海町北峰)に、白峯寺を加えて五岳である。澄禅はまた、崇徳天皇と保元の乱の経緯、怨霊化した伝承などを仔細に記しているが、ここでは略す。白峯寺の境内・崇徳天皇陵の前に頓証寺殿が現存する。 根香寺に行く途中に吉水という薬水がある。吉水の址は現在の足尾大明神(高松市中山町)とする説もある。根香寺に泊まる。
 


   札所だった讃岐一宮


 18日、根香寺を発ち、東の浜に下ってカウザイ(同市香西地区)から南へ向かって、大道(金毘羅高松街道)を横切り南端まで12キロ行き、一ノ宮(田村神社、同市一宮町、現在の八十三番一宮寺の東隣)に至る。
 讃岐一宮の神仏分離は、松平頼常の命により延宝7年(1679)に行われており明治の神仏分離より200年早い。だが、澄禅遍路時には分離されていなかった。
 北へ8キロほどで高松(同市中心部)に至る。澄禅は松平右京太夫(松平頼重)の祈願所は天台宗喜楽院(克軍寺、同市西宝町)といい、水戸より同道にて入国、城下に寺を建てたと記す。高松の寺町(同市番町)にある實相坊(実相寺、同市桜町、もと三番町にあった)に泊まった。


                 ◇
 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
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      ↑澄禅が本来の札所と記した金山薬師・瑠璃光寺




↑崇徳天皇の玉体を浸したとされる八十場の水




↑澄禅の時代には札所であった讃岐一宮・田村神社


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