澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(23)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<「さすが大師降誕の地」讃岐ほめ六院家を示す>



 10月21日の志度寺(八十六番、さぬき市志度)のくだりで、澄禅は、謡曲「海人」で有名な海人の珠取伝説の元となった話が志度寺縁起絵(重文、同寺に現存)に書かれていると記している。現在、寺には海人の墓という五輪塔がある。
 日記にはまた、周辺のことも記されている。房崎(高松市牟礼町原の琴電房前駅周辺からさぬき市志度にかけての地域)とはここの惣名である。新珠嶋(真珠島、さぬき市志度弁天の弁天社のあたり、現在島は陸続きになっている)という場所があり、周囲200メートルほど。寺の東南東には海士野ノ里(同市志度天野、弁天川の東から天野峠にかけての一帯)という海士人の住んでいた所がある。


   寒川古市に宿泊


 志度寺から長尾寺(八十七番、同市長尾西)へ南八キロ。寒川古市(同市の旧長尾町中心部あたりか)で宿泊。一帯は旧寒川郷であり、その中心である長尾のあたりには市が立っていた。古市というは当時の市(同市長尾西)に対し昔の市があった場所という意味か。
 22日、宿を出て山路を越え行く。大窪寺(八十八番、同市多和兼割)へ12キロ。澄禅は、元暦2年(1185)に義経が矢島(屋島)に進軍した時に夜中に通ったという山路であると記している。しかし現在の学説では、義経進軍の道は大坂越とされる。徳島県板野町から香川県東かがわ市に至る道である。長尾寺から大窪寺への遍路道とは異なるルートだ。澄禅は大窪寺に泊まった。


   日開川沿いに下る


 23日、大窪寺を発って谷河(日開谷川)沿いに下る。4キロほど行って長野(東かがわ市五名長野)に至る。尾隠(おおかげ=徳島県阿波市市場町大影)という所から4キロほど行って関所(同市市場町大影南谷)あり、また4キロ行って山中から広い所に出る(同市市場町犬墓平地)。大窪寺から20キロで、切幡寺(十番、同市市場町切幡観音)に至る。
 讃岐の札所を打ち終えたが結願ではない。澄禅は霊山寺(鳴門市大麻町板東)が一番という位置づけはせず、井戸寺(十七番、徳島市国府町井戸)から打ち始めているので、阿波北部の十か寺が残っている。
   澄禅は、讃岐を「さすが大師以下名匠の降誕した地」とほめ、法灯を伝える寺として六院家を示している。東から、夜田ノ虚空蔵院(与田寺、東かがわ市中筋)、長尾ノ法蔵院(極楽寺、さぬき市長尾東)、鴨ノ明王院(七十七番道隆寺、多度津町北鴨)、善通寺誕生院(七十五番善通寺、善通寺市善通寺町)、勝間ノ威徳院(威徳院、三豊市高瀬町下勝間)、萩原ノ地蔵院(萩原寺、観音寺市大原野町萩原)の六か寺である。


   
讃岐七観音に言及

 また、七観音の記述も出てくる。国分寺(八十番、高松市国分寺町国分)、白峯寺(八十一番、坂出市青海町)、屋島寺(八十四番、高松市屋島東町)、八栗寺(八十五番、同市牟礼町牟礼落合)、根香寺(八十二番、同市中山町)、志度寺(八十六番、さぬき市志度)、長尾寺(八十七番、同市長尾西)の七か寺である。讃岐七観音は松平頼重が天和3年(1683)に指定したというのが定説であるが、承応2年(1653)の澄禅の日記に記載されているということは、それ以前から七観音が普及していたことになり興味深い。


                 ◇
 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
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      ↑陸続きになった真珠島にある弁天社




↑大窪寺に至る旧遍路道




↑根香寺山門脇にある當国七観音の標石


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