澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(24)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<現在の倍 91日かけ巡業終了 雨なら逗留、余裕の旅>



 10月23日、切幡寺(十番、阿波市市場町切幡観音)から2・7キロで法輪寺(九番、同市土成町土成田中)に至る。近くの民家で2泊する。
 25日、熊谷寺(八番、同市土成町土成前田)へ2キロほど。4キロで十楽寺(七番、同市土成町高尾法教田)。3キロ余りで安楽寺(六番、上板町引野)へ。安楽寺は駅路寺として瑞雲寺と称していた時期もあったが、澄禅の日記の記載では現在と同じ安楽寺となっている。駅路山浄土院との記述があるので、駅路寺をしていたことはうかがえる。
 4キロ行き地蔵寺(五番、板野町羅漢)。住職の勧めで黒谷寺(四番大日寺、板野町黒谷)往復4キロ打ち戻り、地蔵寺に泊まった。
 26日、地蔵寺を発って東に4キロ行って金泉寺(三番、板野町亀山下)へ。さらに2.7キロ東に行き極楽寺(二番、鳴門市大麻町桧段の上)。最後の霊山寺(一番、鳴門市大麻町板東)へは1.8キロ。
 澄禅の日記では阿波北嶺十か寺の記載はなぜか簡略である。


   淀川のような川


 霊山寺から南に行って大河(吉野川)があり、島瀬というところを舟で渡る。四国三郎橋東側にあった大麻街道の隅瀬渡し(徳島市応神町東貞方〜同市不動東町地先)と思われる。現在の吉野川本流にあたる別宮新川の開削が寛永10年(1633)であるから、渡しは旧吉野川でなく新吉野川のものと考えたほうがいいだろう。澄禅は淀川のような川であると書いており、大きさを近畿地方の淀川にたとえた。新淀川の開削は明治43年(1910)であるから、澄禅が比較したのは旧淀川(大川)である。
 それから井戸寺の近所に出て大道(伊予街道)を行って渭津(徳島市)に至る。
 7月25日より初めて10月26日に到って91日かけて巡行を終える。現在の徒歩遍路は40―50日で1周することから考えると、ほぼ2倍の日数をかけている。雨が降れば逗留し、城下町でも何日か泊まっている場合が多い。今より余裕を持って旅をしていることがうかがえる。


   高野山詣で不明


 船場の源左衛門という船頭の舟に乗って28日に和歌山に着く。26日に霊山寺を打ち終え、和歌山には28日着だから、徳島城下で26、27日と泊まったと思われるが、記録上からはわからない。
 澄禅の日記は和歌山で終わっている。その後高野山に参ったのか、京都・智積院に直に帰ったかは判然としない。ともあれ四国を回り終えたことで完結しているという意識があることは記載から明らかである。


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 以上で、承応2年(1653)の澄禅『四国辺路日記』をたどる旅は終わります。一番霊山寺からでなく、十七番井戸寺から始まった、現在の遍路道とは異なるルートを解明しました。現存する詳細な遍路記録としては最古ともいえる道をたどりました。
 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。編集部あてご連絡ください。先達各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。
 なお、本稿を学術的に検証した論文「澄禅『四国辺路日記』の足取りの検証」は『善通寺教学振興会紀要』第16号(2011年3月)に掲載されました。
 調査にあたってご協力いただいた、各札所寺院ならびに番外寺社、図書館・博物館・おへんろ交流サロン、県市町村関係者、郷土史研究家の方々に感謝申し上げます。(柴谷宗叔)=終わり=


<筆者略歴> 1954年大阪市生まれ。早稲田大学第一文学部卒業、高野山大学大学院博士後期課程単位取得退学。読売新聞記者、同大阪本社編集局編成部次長などを経て、現在四国八十八ヶ所霊場会公認大先達、関西先達会役員、「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会役員、高野山大学密教文化研究所受託研究員など。著書に『公認先達が綴った遍路と巡礼の実践学』(高野山出版社)など。四国番外札所約四百か所をはじめ、西国、板東、秩父など北海道から九州まで全国五十余の霊場を巡拝、中国の空海入唐の道も訪ねる。四国遍路は徒歩を含め五十周を超す。高野山真言宗大僧都。和歌山県高野町在住。


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 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しました。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
e-mail:henrogoya@arrow.ocn.ne.jp







      ↑澄禅が書いた島瀬渡と思われる吉野川の隅瀬渡跡




↑徳島・新町川の船着場。澄禅が乗下船したのは城下まで入ったこのあたりと思われる


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