澄禅の足跡たどる――江戸前期の遍路道再現(5)



                        遍路研究家  柴谷宗叔



<佛崎で札納め読経念仏 大師修行の地室戸崎>



 8月6日、高知県東洋町野根の宿を出て、難所の「土州飛石ハ子石」にかかる。3里(12キロ)の間は「東は海、西は山で宿も無い所」と記している。さらに「海に突き出した室戸岬への行道であり、海辺の岩石を飛び越えながら行く。六七里(十数キロ)の間には米穀はない」と書いている。
 現在も「飛び石跳ね石ごろごろ石」という難所で、室戸市佐喜浜町入木までの同区間は海岸線に沿った国道55号を歩くのだが、民家はおろか自動販売機一つない難所であることは変わりない。何時間も山と海に挟まれた同じ景色が延々と続き、歩き遍路が最も苦行を強いられる区間の一つであり、「修行の道場」とされる土佐の遍路の厳しさを実感する。国道のない江戸時代、波打ち際の石伝いに、まるで飛び跳ねるように歩いたことから「飛び石跳ね石」の名がついたとされる。
 さて、澄禅は難所を12キロほど行って「佛崎という奇巌妙石が積み重なった所で札を納め、読経念仏した」と記している。この佛崎とはどこか。現在は当該の番外札所はない。澄禅の日記以外には文献に出てこない場所なのである。現地調査で探してみたところ、東洋町から室戸市佐喜浜町に入って200メートルのあたり(同市佐喜浜町水尻谷)に佛崎と思われる場所を見つけた。海に突き出た岩が仏像のように見え、石仏も祀られている。石仏に年号などの手がかりは無く、いつ建造されたものかは分からないが、祈りの場所であることは間違いないだろう。
 佛崎から1キロ余り行って貧しい漁夫の家があり、24キロほどの漁翁の家に泊まり、そこから12キロで室戸岬という澄禅の記述からみて、距離的に適合する所である。貧しい漁夫の家があったのは室戸市佐喜浜町入木、泊まった漁村は同市室戸岬町椎名と推定する。
 7日は海辺を12キロばかり行って室戸岬に至る。東寺(二十四番最御崎寺、室戸市室戸岬町坂本)の山下の海辺には素晴らしい景色が広がっていた。その中央に岩屋(御蔵洞=御厨人窟、同市室戸岬町)がある。「奥行二十間、愛満室満権現という鎮守である。(洞窟から海に向かって)左に地主の神社を祀る小さき岩屋がある」と記す。
 中央の御蔵洞は現在「五所神社」とされ、祭神は大国主命となっているが、かつては愛満権現の表記があった。室満権現は不明だが、現在、法満宮(同市元新村)が二十六番金剛頂寺麓にあり、法満を宝満と書こうとして室満と誤記した可能性もある。小さき岩屋とは、北側の神明窟を指すと思われる。現在は神明宮となっており祭神は天照大神である。南側には別の小さな洞があり、前に弘法大師修行地という石碑が立っている。
 100メートル余り行くと「大師修行の求聞持堂。その奥に岩屋(観音窟=一夜建立の岩屋、同市室戸岬町)があり、大師作という如意輪観音、仁王の石像」と記している。観音窟には現在も如意輪観音の石像が祀られている。求聞持堂は現存しないが、観音窟前には建物跡とみられる広場がある。
 愛満権現ならびに如意輪観音を祀る岩屋については、真念『四国邊路道指南』など以降の江戸時代の文献にも両方とも記載されていることから、どちらも参られていたことがうかがえる。
 弘法大師が『三教指帰』に記した室戸岬での求聞持修行の霊跡は、現在では御蔵洞とする説が主流だが、澄禅の日記や真念以降の文献から読む限り、江戸時代前期から中期には前に求聞持堂があった観音窟と考えられていたということであろう。また、澄禅の日記には登場しないが、金剛頂寺住職の坂井智宏師は、同寺麓の行当岬不動岩(同市新村行道)が修行の地であったという説を出されている。
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 筆者の文献研究と現地調査結果を元に澄禅の遍路ルートを推測しました。もし異なるルート等のご指摘がいただけるなら有り難く承ります。史料の出自、在り処等がわかればお教え頂きたいです。各位のご意見、ご指摘をお待ちしております。なお、この内容は月刊紙「へんろ」に毎月連載しております。(柴谷宗叔)


「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋プロジェクト」を支援する会
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      ↑澄禅が札を納めた番外札所・佛崎と思われる奇岩




↑大師修行の霊跡とされる御蔵洞




↑求聞持堂が前にあったと記された観音窟


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